あかり、小学校卒業おめでとう
大変ご無沙汰しておりました。
時が経つのは早いもので、長女あかりは先日6年間通った小学校を無事に卒業しました。
ようやく気持ちが落ち着いてきたので、ここに書き起こします。
先生方、ありがとうございました
まずはこのコロナ禍に於いて卒業式を催して頂けたこと、学校関係者の皆様には改めて深く御礼申し上げます。
今年度は緊急事態宣言に伴う休校、分散登校から幕を開けるという、例年と異なる新学期を迎えました。
休校明けの学校生活でも通常通りのそれとは異なり、様々な場面で制約を受けることになりました。
そんな状況の中で学校の先生方には細心のお心遣いを頂きました。
児童たちが感染リスクに晒されないよう心を砕いて頂きました。
学校行事や学年行事がことごとく中止される中、子供たちや我々保護者の心情を汲み取って頂き、なんとか修学旅行には行くことが出来ました。
その思い出はあかりの胸に深く刻まれたようです。
無事に卒業を迎えられたのは、ひとえに先生方のご尽力があったからこそです。
何度も言いますが、このような状況下で卒業式を催して頂いただけでも大変ありがたいと思わないといけませんね。
いろんな行事が中止になって、卒業式も短縮・簡素化されて「子供たちがかわいそう」と思うところもありましたが、そう思ってしまうのは多分、僕らが自分自身の「平時」の小学6年生を経験済みだからだと思いました。
その僕らの経験則と比べてしまうから「かわいそう」と感じてしまうのかもしれませんが、当の本人たちは短縮・簡素化された卒業式でもそれが当たり前、自分たちがかわいそうだなんて微塵も思わないと言わんばかりに感極まって涙しておりました。
「かわいそう」と思うことがあかりに対して失礼なことだと思うほどに、真っ直ぐ前を見て堂々と卒業証書を受け取っていました。
これは先生方が平時と変わらない温情と、平時とは違う意識で子供たちに接して頂けたからだと感じました。
卒業式をやってもらっただけでも感謝の念に耐えません。
あかりの6年間の小学校生活では、恩師と言える先生との出逢いもあったようです。
卒業を間近に控えた彼女との会話でも、先生方との思い出話が尽きることはなく、教師という職業は偉大だなぁと改めて感じ入りました。
先生方からの御指導があったからこそ、あかりは真っ直ぐに、素直に育ってくれたと感謝してもし尽くせません。
先生方が道標となり、あかりの人格形成に多大な影響を与えて頂きました。
本来なら卒業式後の謝恩会で直接御礼を述べるのが筋なのですが、それすらも中止なのが悔やまれます。
あかりには「また何処かで先生方とお会いしたときに、胸を張って会えるようにしっかり生きていきなさい」と卒業式後に話しました。
本当に感謝しています。
6年間ありがとうございました。
保護者の皆様、ありがとうございました
僕はあかりが入学した時から PTA 評議員に選ばれてしまいました。
「選ばれてしまった」という表現がぴったりな程、当時の僕は PTA に対して良いイメージが無く、俗に言う「PTA 不要論」寄りの気持ちでした。
そんな僕が PTA の中で動くということに強烈な違和感を持ったまま参加したのを覚えています。
その後毎年評議員の任を仰せつかり、5年・6年時には学年委員長の任を仰せつかり、卒業式後の PTA 解散式にてその任を解かれ、今改めて思うのは「PTA って悪くなかったなぁ」ということです。
PTA の仕事というのは引き受けなければやらなくてもいい仕事です。
当然報酬もありません。
「悪くなかった」けど決して「良かった」とは言わない理由です。
人一倍めんどくさがりな僕ですから、本来やらなくてもいい、面倒で無報酬な仕事を、僕の個人的な自己満足や虚栄心だけで引き受けていたら絶対に投げ出していたと思います。
では何故6年間遂行出来たのか?と自分に問いただしてみました。
答えは子供のためにやろうと思えたからに他なりません。
例え自分に利が無くとも、自分の子供のためにやろうと思えました。
PTA に積極的に関わらなければ、あかりと僕との現在の距離感もきっと違ったものになっていたでしょう。
子供の存在の大きさに改めて気付かされた、非常に学びの多い PTA 活動でした。
PTA 活動に関わったからこそいろんな保護者の皆様と知り合うことができました。
PTA、悪くない。
そしてこんな至らない学年委員長だったにも関わらず、周りの保護者の皆様には様々な叱咤激励を頂き、同じく「子を持つ親」として多大な御協力を頂けたことに、本当に感謝しています。
皆様の御理解と御協力が無ければ卒業時の最後の企画もなし得ないものでした。
残念ながら学区の関係で全員が同じ中学校に進学する訳ではありません。
でも、あかりにも話しましたが他の学校に友人がいるというのは大きな財産です。
保護者の皆さんに対しても同様に思っています。
学年委員長というか、そもそも人として至らない僕に今後とも皆さんの御指導頂けたらこんなに嬉しいことはありません。
本当に感謝しています。
6年間ありがとうございました。
PTA 会長と学年委員長
保護者同士という出会いでしたが、共通の趣味を持つ大事な友人となりました
あかり、卒業おめでとう
そしてあかり、小学校卒業おめでとう。
入学した頃の君は人一倍身体が小さく、身体に対して大きいランドセルを背負って登校していましたね。
お母さんも僕も、本当にこんな小さい身体で大丈夫なのか?やっていけるのか?と心配だったのを昨日のことのように覚えています。
そんな親の心配をよそに、君は新しい世界、それまでよりも広がった社会の中で目一杯学んで、目一杯遊んで、目一杯楽しんだようで心底安堵しています。
こんなに小ちゃかったんだね
「あかりちゃんはどんな場でも自分の考えを臆することなく意見出来る子ですね」
担任の先生や周りの先生方に6年間ずっと仰って頂いた言葉です。
いろんなことに興味を示し、様々なことに立候補し、その都度成長を感じられました。
僕は君のことが誇らしい。
でも君は僕の子なんです。
僕の子だから、自分の意見を押し付け過ぎて周りと軋轢を生むことが今後もしかしたら起こってしまうかもしれません。
それでいい。
自分の意見を押し黙ってしまうよりはそれでいいんだよ。
それでいいけれど、周りの人の意見も聞いてみると、多分もっと自分の世界は拡がっていくはずです。
そして周りの人の意見を聞いて受け入れるということは、その人を受け入れるということです。
もっと沢山の人と認め合える仲になれるはずです。
音楽も大好きなあかりです
弟の面倒も良く見てくれますね。
やんちゃな弟に手を焼き、小姑的になっちゃうことも、ケンカしちゃうこともあるけれど、それでも彼が入学から2年間無事に登校出来たのは、同じ通学班で見守っててくれた君のおかげです。
先日彼と一緒にお風呂に入った時、僕は何気なく彼にこう言いました。
「あかりと一緒に同じ学校行けるのももうすぐ終わっちゃうねぇ」と。
言葉では強がっていたけど、すごく神妙な顔をしていたよ。
彼にとって君は、当たり前のようにいつも一緒にいてくれた存在だから、彼なりに一抹の寂しさを感じていたんだと思います。
ちょっと前、君たちがケンカしたときの僕からの説教で、2人にこんなことを言ったのを覚えていますか?
「ケンカしちゃうのは気持ちの根っこではお互いを『好き』だから。『好き』という気持ちがなかったらケンカにならない。この『好き』という気持ちはどうにも厄介なものだけど、マイナスの方向に向かわせるんじゃなくて、プラスの方向に向かわせたらケンカにならずにもっと仲良くなれるんじゃないかな?」
ケンカなんかいくらやったっていいんだよ。
でも根っこの気持ちを忘れずに、これからも彼のことをよろしくお願いします。
なんだかんだで仲良し
君が3年生から4年生に進級するタイミングの春休み、僕と同じ趣味のスケートボードを始めましたね。
そして学校行事のスキー教室が終わった後は、またスノーボードを再開してくれました。
思いの外のめり込んでくれたおかげで僕らの生活は一変しました。
始めてから今日まで約3年間、ほぼ毎週末君と弟と僕の3人でいろんなところへ滑りに行ったね。
天童市内や同じ県内の山形、上山、寒河江、酒田に飽き足らず、宮城、秋田、岩手、新潟、そして東京。
君らと一緒に過ごせるこの時間は僕にとってかけがえのない宝物です。
親としてただ見守るだけじゃなく、同じ趣味を、同じプレイヤーとして、同じ目線で、同じ時を過ごしているからか、君とはとても良い関係が築けていると思っています。
お互いに何を考えているかをなんとなく分かっている、相互理解出来ているように思います。
君が思春期に片足突っ込んだここ最近でも、喜んで僕と遊んでくれることがこの上無い喜びです。
君はもう年頃の女の子だから、いつまで父と一緒に遊んでくれるのか?と考えて、ふと寂しくなってしまうこともありますが、進学後の部活もスケートボードやスノーボードに重きを置いて選ぶとのこと、とても楽しみです。
とっくに僕よりも上手になってしまって、僕からいろいろ言われるのは鬱陶しいときもあるでしょう。
でも僕はこれからも口出しするよ。
それが君と分かり合える最高の時間だから。
そしてスケートボードやスノーボードを通して、年齢や学校の異なる友達が沢山できました。
学校の外に、同じ趣味を持つ友達がいるというのはとても幸せで素晴らしいことです。
君の財産です。
学校の友達と同様、どうか大事にして下さい。
そして今まで以上に、周りの全ての人々に感謝する気持ちを持てる人になって下さい。
君の当たり前の生活は周りの人々に支えられています。
一緒の趣味があるって幸せです
書きたいことが溢れ出してなかなかうまくまとめることができないことを詫びます。
でも君のために心を込めて書きました。
あかり、卒業おめでとう。
あかり、僕の子として産まれてくれてありがとう。
君は僕の誇りです。
君の未来には光しかない。
おめでとうあかり、ありがとうあかり、これからもよろしく
矢は放たれた
最後にカリール・ジブランの「預言者」という本の一説、「こどもについて」をご紹介します。
先日の卒業式でこの詩が頭に浮かびました。
あかりという矢は妻や僕という弓から放たれました。
あなたのこどもは、あなたの子ではありません
絶えることなく続こうとする生命、それが息子や娘になったのですこどもはあなたを通過する存在であり、あなたから生じた存在ではありません。
こどもはあなたと共にいますが、あなたに属しているわけではありません
こどもに愛を与えることはあっても、あなたの考えをおしつけてはなりません
こどもにはこどもの考えがあるからです。
こどもの体を家に住まわせることはあっても、こどもの魂までをそうしてはなりません。
こどもの魂は未来という家に住むからです。
その家をあなたは訪れることはできません。
たとえ夢の中であってもあなたがこどものようになろうとすることはあっても、こどもをあなたのようになるよう強いてはなりません。
命は過去にさかのぼることも、留まることもできないからです。あなたは弓です。
そこからあなたのこどもが生きた矢となって、解き放たれるのです。
神の射手は無限の道の彼方にある的を見
神の力を使ってあなたをしならせるのです。
その矢が勢いよく遠くまで飛んで行くようにあなたが射手の手によってしなることを喜びとしなさい。
なぜなら、神は飛んでいく矢を愛しているだけでなくそこに留まっている弓をも愛しているからです。On Children by Kahlil Gibran
Your children are not your children.
They are the sons and daughters of Life’s longing for itself.
They come through you but not from you,
And though they are with you yet they belong not to you.
You may give them your love but not your thoughts,
For they have their own thoughts.
You may house their bodies but not their souls,
For their souls dwell in the house of tomorrow,
which you cannot visit, not even in your dreams.
You may strive to be like them, but seek not to make them like you.
For life goes not backward nor tarries with yesterday.
You are the bows from which your children as living arrows are sent forth.
The archer sees the mark upon the path of the infinite,
and He bends you with His might that His arrows may go swift and far.
Let your bending in the archer’s hand be for gladness;
For even as He loves the arrow that flies, so He loves also the bow that is stable.