映画「天気の子」を観てまた僕は深く考えさせられた ※ネタバレあり
3年前に大ヒットした新海誠監督の映画「君の名は。」
とても素晴らしい作品でした。
そしていよいよ同監督の最新作「天気の子」が先週公開され、早速視聴に行きました。
初見後、僕はまた新海監督にいろいろと深く深く考えさせられることになりました。
まずは前作「君の名は。」と新海監督に対する想い
不朽の名作 「君の名は。」
僕は「君の名は。」以前より新海誠監督作品が大好きで、「君の名は。」を観てしばらくした後、このようなたぎる想いを当Blogにて エントリー しました。
このエントリーが僕の想いの全てな訳ですが、公開から3年経ち新海監督の最新作が今夏から公開。
初日(7月19日金曜日)からの3日間の累計は16億円を突破、「天気の子」のオープニングの数字は「君の名は。」対比で128%、興行収入100億円を超えることはほぼ間違いなく、早くもあとはどこまで前作の興行収入250億円という数字に迫れるのか?という状況になっているようです。
いかに前作が旧来の新海ファンだけでなく一般の方にも受け入れられたのかが分かる数字です。
前作で新海(敬愛の念を込めてあえて呼び捨て)によって僕の感情の全てをグラッグラのボロッボロに揺さぶられたため、またあの感覚になってしまうのかと恐れつつも、やっぱりどうしても観たい気持ちが勝ってしまい、娘とともに映画館へと足を運び、ワクワクしながら視聴しました(妻と息子は同時刻に別のスクリーンでトイストーリー4を視聴)。
「天気の子」
映画『天気の子』公式サイト 全世界待望ー前作『君の名は。』から3年、新海誠監督、待望の最新作!『天気の子』7月19日公開 これは、僕と彼女だけが知っている、世界の秘密についての物語
これは僕と彼女だけが知っている、世界の秘密についての物語
「あの光の中に、行ってみたかった」
高1の夏。離島から家出し、東京にやってきた帆高。
しかし生活はすぐに困窮し、孤独な日々の果てにようやく見つけた仕事は、怪しげなオカルト雑誌のライター業だった。彼のこれからを示唆するかのように、連日降り続ける雨。
そんな中、雑踏ひしめく都会の片隅で、帆高は一人の少女に出会う。ある事情を抱え、弟とふたりで明るくたくましく暮らすその少女・陽菜。
彼女には、不思議な能力があった。「ねぇ、今から晴れるよ」
少しずつ雨が止み、美しく光り出す街並み。
それは祈るだけで、空を晴れにできる力だった。映画「天気の子」公式サイトより引用
これほどまでに単純な物語に見せかけた難しい作品は無かった
※ここから先は重大なネタバレを含みますので未聴の方は読み進めないことをオススメします。
いいか、俺は言ったからな!
初見して感じたのは、
「これほどまでに単純な物語に見せかけた難しい作品は今までの新海作品には無かった」
ということです。
“難しい”とは書きましたが、ストーリーが複雑なわけではありません。
「君の名は。」のようにタイムパラドックス的要素があるわけではないので、至ってシンプルなストーリーです。
「雨を晴れにできる少女陽菜が、その力を使いすぎ空へと旅立ち、少年帆高が少女を取り戻して終わる」
たったこれだけの話で、「君の名は。」以上に単純なストーリーだと思います。
実際終演直後、娘も単純に面白かった、また観たいと感想を述べていましたので、小学生にも分かりやすく面白いストーリーなんでしょう。
確かに分かりやく面白いんです。
でも、思いっきり矛盾しますが、とても難しいとも感じました。
難しいと感じる所以は案の定ラストシーン。
このラストがすごく厄介です。
陽菜は天気を晴れに出来る力で、数十年に一度の異常気象から関東の街を救います。
しかし、その代償として人柱となり空の世界へと旅立ってしまうのです。
帆高は陽菜を取り戻すため、空の世界へと向かい陽菜を取り戻します。
人柱を失った空は雨を降らせ続け、東京の大部分を水没させてしまうのです。
設定は全く違いますが、話の根幹が似ている新海監督の過去作品を上げるならば 「雲のむこう、約束の場所」
同作では、ヒロインを目覚めさせると世界は並行宇宙に書き換わってしまうため、ヒロインをとるのか世界をとるのかという選択に迫られました。
結局同作では多少の犠牲はあったものの、ヒロインも救えて世界も滅びることはありませんでした。
しかし本作では主人公の帆高は最終的に天気の均衡を取り戻すのではなく、「世界なんか狂っててもいい」と陽菜がいる世界を選択をして、結果雨は数年間も降り続け東京の大部分は水没したのです。
王道のストーリーならば狂った均衡は修正されて終わるでしょう。
もし狂った均衡の修正と代償に大切な人が失われるなら、両方を失わない方法を模索すると思います。
大部分が水没した東京の映像ははっきり言ってショッキングでした。
まさか「君の名は。」を経た新海監督が首都東京を変革させるストーリーを描いてしまうとは予想もしてなくて、これをどう解釈していいのかが全く見えてきませんでした。
正直今も自分なりの答えを導き出せていません。
なるほどこれはハッピーエンドにも見えるしバッドエンドにも見えるし、非常に難しいモノを見せてきたなと。
ハッピーエンドか?バッドエンドか?
この物語は主人公の帆高の視点で描かれています。
彼の視点からすれば、最愛の陽菜を取り戻したハッピーエンドにしか見えません。
しかし、水没した東京の残された土地に住むお婆さんはこんなことを言うのです。
「東京はかつて海だった、元に戻っただけ」
東京の下町に暮らしていたお婆さんですが、降り止まない雨に家を追われ、孫たちの住むマンションへと引っ越してきました。
このセリフはどこか諦観のようなものを感じさせられます。
それは人は自然には叶わないと分かっているからでしょう。
帆高は陽菜を取り戻す前、「天気なんか狂ってたっていい、それでも陽菜を選ぶ」と叫んでいました。
水没した東京で、彼は世界を変えたという自覚が確かにありました。
だからこそお婆さんの言葉に「すいません」と謝罪したんでしょう。
このやりとりを見て僕は、「社会」という単位で見るとバッドエンドなのだと感じざるを得ませんでした(こういうバッドエンドは新海作品の最大の特徴だと思っているのですが)。
異常気象の真っ最中、帆高を雇っていた編集プロダクション社長の須賀はこんなことを言います。
「人柱一人で狂った天気が元に戻るなら大歓迎だ」
たった一人の犠牲で多くの命、都市が救われるなら普通の人は納得し受け入れるのかもしれません。
ですが帆高は違います。
世界より、自分と自分の最愛の人を選びました。
帆高のエゴイズムが世界を変えてしまったのです。
「君の名は。」と同じ世界であることがさらに難解にしていく
今作がさらに難解に感じるのは(作中で言明していませんしあくまでも僕の推測ですが)「君の名は。」と同じ世界である点です。
今作は2021年が舞台です。
オカルト雑誌ムーには「彗星が落ちた日」という特集が組まれていますし、なんと作中にあの瀧くんと三葉ちゃんがチラッとだけですが登場してきます(他にも四葉ちゃんやテッシー、さやちんも登場します)。
瀧くん、三葉ちゃんが登場したときは心湧きました。
「君の名は。」ファンへの新海監督のサービスだと思いました。
しかし彼らが登場するということは???
2021年は瀧くんが就職活動していた時期であり、三葉ちゃんたちは東京で生活しているため「君の名は。」の世界と同一、地続きの世界だと推測できます。
もし本当に同一の世界なのだとすれば、新海監督はとんでもないことをしでかしました。
ご存知の通り、「君の名は。」では瀧くんの行動で三葉ちゃんたちは救われました。
三葉ちゃんの住む糸守町が無くなることはどうやっても回避出来ませんでしたが、それでも人命は救いました。
「天気の子」は違います。
予測できる自然災害を回避しようと思えば出来ました。
でも回避しませんでした。
社会、世界からすれば全くもって非合理的で正しくない選択をしました。
「君の名は。」と同じく1人の女の子を救うという構図ではありますが、前作では1人の女の子を救うことと町民全員を救うことはほぼ同義だったのに対し、今作は1人の女の子を救うことと皆の幸せはいわば対立関係にあったわけです。
そしてその2つを両立する術を彼らは知らず、ご都合主義な奇跡も起きない世界でした。
瀧くんと帆高は自らの意思で選択しました。
選択の結果、一方は救済を果たし、もう一方は変革に繋がってしまいました。
前作「君の名は。」で見せた救済を真っ向から否定したような作品と言えなくもありません。
「変えられない、でも生きていこう、前に進もう、違う場所で人生を解き放とう」
そんなメッセージを前作に込めた(と僕は思っている)はずなのに、本作では「狂っていてもそれを受け入れて生きていくしかない」と決意しているんです。
2つの作品が同一世界であるならば、この異質の選択が同じ世界で起こったということです。
「君の名は。」と地続きの世界でありながらそのメッセージを自ら完全に否定してきました。
救済と全く異なる、いわば”受容”を描いてきました。
必死に進もうとした前作とは明らかに違います。
救済された前作のような熱と疾走感ではなく、どんな世界になっても生きていくしかないという諦観のような受容が描かれています。
本作は王道が王道として好まれる、例えば全ていい方向に向かうという、観たときの爽快感みたいなものを描いていません。
最愛の人がいればそれでいい、世界がどう変わろうとも知ったことじゃない、そんな風にすら見えてきます。
これはまるで今の日本社会を映し出しているかのようです。
「君の名は。」から3年経ち、日本社会も変質しました。
その変質は作中でも表現されています。
「君の名は。」では、パンケーキというごちそう、瀧くんがバイトするイタリアンレストラン、三葉ちゃんの「こんな家住んでみたい」と感じさせる田舎の日本家屋など、全体的にリッチでキラキラした雰囲気が醸し出されていました。
しかし今作では、ハンバーガーやカップヌードルというジャンクフードがごちそうであり、陽菜がバイトするのはマクドナルド、そこも辞めざるを得なくなり身体を売ることまで考える始末、さらには陽菜と凪が住む狭いアパートや薄汚い漫画喫茶、歌舞伎町の雑踏に、極め付けが帆高と陽菜と凪の逃亡先であるラブホテル。
前作と比べると明らかに登場人物周りの環境にジメジメとした「貧しさ」を感じます。
先述のように前作と今作が同一の世界であるならば、3年前よりも社会がずっと(物質的にであれ精神的にであれ)貧しくなっているという表現であり、日本の変質を描いていると言ってもいいのではないでしょうか。
その変質を受け入れよう、大切な人がいればそれでいいじゃないかと、今作は説いているようにも思えます(ある意味変化を諦めているようにも思えてしまいますが)。
そして、陽菜を選べば天気の均衡が狂ったままだと明確に、確実に理解しながらも陽菜が生きている世界を選ぶという、帆高の陽菜に対するあまりにもまっすぐ過ぎる気持ちが、変質してしまった今だからこそ心の底から尊いと感じました。
変わらない狂った表現方法
そして今作の特筆すべきところです。
冒頭ご紹介した、以前の「君の名は。」に対するエントリー中に僕はこう書きました。
同作は明らかに東日本大地震をモチーフにしており、災害の元凶となる彗星の存在に一切の悲劇性を持たせず、徹頭徹尾「美しい」ものとして描いた表現方法は震災後の作品としては単純に「凄まじい」としか言えませんし、言い換えれば「異常」とか「狂ってる」演出ですと。
これは本作にもものの見事に当てはまります。
近年、降り続く雨による豪雨災害が多発しています。
この作品は前作同様、今度は豪雨災害をモチーフにしているのではないでしょうか?
案の定、新海監督は災害の元凶と言える雨や雲を、一貫して「美しく」表現しました(もともと美しい雨や雲の描写は新海作品の真骨頂ですが)。
狂ってしまった天気。
100%の晴れ女陽菜によって一時的に戻ってきた晴れ間も、それによって打ち上げられた花火も、それはそれで凄まじい美しさなのですが(そういえば新海作品で花火の描写って初めてみたような気がする)、今作のベースとなる世界に降り続く雨は、同じ雨なのに描写の仕方が何種類にも見えますし、同じ雨なのに場面により表情が全く異なるようにも見えました。
新海監督の過去作で、同じく雨をモチーフにした名作 「言の葉の庭」
同作での雨の描写にも息を呑みましたが、本作ではそれをさらに凌駕した描写です。
そして作中「雨よりは晴れの方が」というニュアンスは多々ありますが(むしろ帆高に晴れた方がいいと言われたことが、陽菜を人柱として天気を修復させることになるのですが)、陽菜が人柱を辞め、狂ったままの天気によって東京を浸水させてしまうほどに降り続ける雨の存在に一切の悲劇性を持たせず、徹頭徹尾「美しい」ものとして表現しました。
件のお婆さんの住むマンションに帆高が足を運んだ時に、今の水没した東京は自分たちが作り出したという、申し訳ないという空気が一瞬だけ形成されますが、当のお婆さんに雨を忌み嫌う描写は全くありませんし、ラストシーンで降り続ける雨の中佇む陽菜にも、その姿を見つける穂高にも「雨が降り続いているのは自分たちのせいだ…」とか「私が人柱としてあり続けていたら街は水没しなかった…」とか、そういう負の感情は全く感じられません。
そして、前作の彗星の時もそうでしたが、今作のハイライト、帆高が陽菜を連れ帰り、同時に天気がまた狂っていく場面でも美しいラブソングが挿入されていました。
仮に雨に悲劇性を持たせるのであれば、陽菜を取り戻しに行く大騒動から美しくて切ないラブソングを挿入することはなかったはずです。
この美しくも切ないラブソングは、二人が神社に戻ってくる直前まで流れています。
この演出は並みの精神ではなし得ません。
この手腕は豪雨災害後の作品として「凄まじい」と思いますし、やはり「異常」で「狂ってる」表現だと思いました。
いわゆる「災害後の文学」だからこそ、以前の新海作品のようなすれ違いや喪失感を与えるラストであってはいけないんです。
2人は再会してこそ、人々に希望を与える作品になるんですね。
以前のような「希望があるのかないのかはお前らが読み取れ」というラストではダメなんでしょう。
希望を見る側に委ねるのは、災害を経験してしまった日本人には痛み以外の何物でもないと思います。
そして新海監督作品独特の「喪失感」も分かりやすくない形でしっかり表現されています。
作中ラストで再会を果たし抱き合っている二人の姿はハッピーエンドと感じます。
しかし、前述しましたが「社会」という単位としてみるとバッドエンドです。
3年前に彼らが過ごしてきた場所は(おそらく)水没してしまっており、今後の二人の生活基盤も作中では語られていません。
これは典型的な喪失感ですが、それすらも(二人のエゴイズムですが)狂ってる世界でも最愛の人がいればそれでいいという投げかけに感じました。
前作でも感じましたが、以前の新海監督は淡々と人を描き続けた監督であり、こんな社会的な問いかけをする監督ではありませんでした。
しかし、「君の名は。」に続いて本作「天気の子」でも災害をモチーフにして、それを見事なまでに青春SFファンタジーに落とし込み、かつテンポも良くまとまり、前作同様素直に感動できる傑作に仕上げました。
「もしも神様がいるのならばお願いです。僕たちをずっとこのままで居させてください。これ以上僕たちに何も足さず、僕たちから何も引かないでください。」
今作中で特に印象に残った帆高のセリフです。
新海作品の多くに登場する、お互いを強く強く求める男女にとっての「完璧な瞬間」をものの見事に表した完璧なセリフだと思います。
「君の名は。」のカタワレドキのシーン、「言の葉の庭」の天気雨のシーン、「秒速5センチメートル」の桜の木の下のシーンなど、新海監督はこの「完璧な瞬間」をこのセリフで表現したのかと胸が熱くなりました。
このセリフがあるからこそ、孤独だったり喪失だったりといった要素がより強調され、こういう誰かを求める感情の源泉こそが人を突き動かす原動力になるのだなと。
何度も観たい作品
正直(一度しか観ていない現状では)映画としての本作の出来は「君の名は。」にほんのちょっとだけ及ぼないと感じました。
ストーリーに粗が多いのは前作も同じですが、前作は展開の速さと勢いで一気にクライマックスに持っていったのに比べて、今作は場面展開がすこーしだけ緩かったかなと(と言いながらもクライマックスまでの怒涛の展開はさすがだったのですが)。
でも僕の中で「君の名は。」は日本のアニメーション映画の金字塔だと思っていますので、今作も相当良い作品であることに間違いありません。
一見ハッピーエンドで、安定のボーイミーツガールで、圧倒的な映像美。
しかし、心にずっしりと重石のように何かがのしかかってくる作品です。
東京を水没させた選択は果たして正しかったのか?
先に進まなくていいのか?
ありのままを受け入れただけでいいのか?
こんなふうに感じてしまいます。
現状はこの作品の問いかけがうまく咀嚼できておらず、それに対する答えが導き出せていないというのが正直なところです。
そもそも問いかけも答えもないのかもしれません。
前作同様中毒性のある作品ですが、この先観れば観るほど多様な解釈が生じてしまうような気がします。
その解釈次第では、僕やその人の思想や人生観まで炙り出されてしまいそうで、変に落とし所を求めるのが怖くもあります。
これほどまでに多様な考えを生み出す作品を作り上げた新海監督があまりにも恐ろしいとさえ思います。
今作を一言で表せと言われても、今のところ僕には何も言えません。
それほど前作同様衝撃的な作品でした。
間違いなくこれから何度も観ることになるであろう作品です。
でも自分の中での落とし所を見つけられるのか?と考えるとあまりにも難しすぎる作品でもあるかなと。
視聴後に iTunes で購入した今作のサントラを聴きながら、今作に関して色々と考えています。
自分の落とし所を見つけるため、二度、三度映画館には足を運ぼうと思いますし、購入出来るようになったら自宅でも視聴したいと思っています。
おそらくは見るたびに感情の全てをぐちゃぐちゃにされるんでしょう。
でもそれがいい映画なんじゃないかと。
何度も視聴して、この作品に関してまた思うところが出来たら追記していきたいなと思っています。
また、今作を観たという方は、ぜひぜひ僕と感想や解釈など討論会をやりましょう!
【追伸】
新海作品は登場する女の子がとてつもなく可愛くて素晴らしいことを再認識したという事実を書いて、このエントリーを結びます。
陽菜も可愛いんですが「君の名は。」の奥寺先輩に匹敵する破壊力の夏美さんの魅力たるや