バイバイ、なっちゃん
平成29年3月28日深夜、祖母ナツエが永眠した。
享年89歳。
寡黙で控え目、穏やかで優しく、慈愛に満ちていた祖母。
その性格を表すような静かな最期だった。
本日無事に葬儀を終え、祖母を送り出した。
孫代表で別れの言葉を仰せつかり、その内容を記録に残す意味でも、若干の加筆修正を加えてここに記すことにする。
実感湧かず
ここ数年、自分で立つこともおぼつかず、食も細くなっていた祖母だが、痛いとも苦しいとも言わずに最期まで過ごすことが出来、まさに大往生と言えるだろう。
今年1月の入院以来、いつかこの日が来ると頭では理解していたが、最近は容態も安定しており、しばらくはこのままの状態が続くであろうと思っていた矢先の出来事だったために、覚悟はしていたものの霊前の前に立っても実感が湧かないというのが今の本音だ。
それでも皆の見守る中でなく、深夜眠るように旅立ったというところが、寡黙で控え目で、穏やかで優しかった祖母らしい。
最期を見送ることが出来ずに、寂しい想いをさせてしまったのではないかと申し訳ない気持ちでいっぱいだが、祖母が旅立った日は3月28日。
その前日は27日。
奇しくも32年前の3月27日は祖父が旅立った命日だった。
きっと誰にも邪魔されない様、誰もいない時を見計らい「お疲れ様」と祖父が迎えに来て、二人手を繋ぎ一緒に旅立っていったのだろう。
そう思うと、とても哀しいはずの祖母との別れが、ほんの少しだけ微笑ましくも感じられる。
塩むすび
僕が小さい頃は、両親が共働きだったこともあり、祖母には本当に良くしてもらった。
典型的なおばあちゃんっ子だった。
強く記憶に残っているのは、僕たち兄弟が空腹を訴えると、祖母がおやつ代わりに作ってくれたおむすびである。
特に好きだったのは、具も海苔もない、塩だけのおむすび。
祖母の柔らかい手で握られた、優しい塩っ気の塩むすび。
慈愛に満ちたその味は、僕たち兄弟の空腹を穏やかに満たしてくれた。
その祖母の塩むすびの味は、今でも忘れることが出来ない。
あの味が食べたくて、あの味を模して母や妻に塩むすびを作ってもらっても再現出来ない。
その後どんなに美味しい物を食べても、あの塩むすびの味には到底叶わない。
祖母の塩むすびの味は、僕にとって究極にして根源、僕という人間を作り上げてくれたルーツの味と言える。
小さな背中から
改めて生前の祖母を思い返すと、最初に浮かんでくるのは、何故か必ず祖母の後ろ姿だ。
早くに祖父を亡くしてから、毎日毎日仏前に向かいお経を唱えていた後ろ姿。
暑い日も寒い日も、毎日背を曲げながら畑に足を運んでいた後ろ姿。
何故後ろ姿なのかと、ここ数日ずっと考え続けている。
人とは元来、変化することを怖がるくせに、同じことを繰り返し持続することが苦手な生き物だ。
変化を怖がる臆病者かつ、持続出来ない甲斐性無し、それが人の本質の一部だと思う。
しかし祖母は、決して愚痴をこぼさず、誰に頼まれた訳でもなく、毎日黙々と、様々なことをやり通した。
祖母の後ろ姿が真っ先に思い浮かぶのは、続けることの意義や芯の強さ、そして愚直に生きるという生き方を、祖母の小さな背中から、無意識に学んでいたからなのかもしれないと感じている。
祖母が作り上げた家族
僕たち家族はみんな、祖母のことが大好きだった。
叔母達家族も総出で祖母の元に集い、宴席を設けたのも一度や二度ではない。
僕たち家族の真ん中には、いつも穏やかな祖母の笑顔があった。
その笑顔を見ると、僕たちは幸せな気持ちになれたものだ。
この家族を作り上げたのは間違いなく祖母なのだ。
家庭を持った今、祖母が長年かけて築き上げてきたものの大きさを改めて実感している。
では祖母はどうだったんだろう?
僕たちが家族で、本当に幸せだったんだろうか?
祖父を亡くしてから32年、もしかしたら祖母はずっと寂しかったのかもしれない。
でも祖母のあの笑顔は、僕たちとの時間が幸せだと感じてくれていたのだと確信している。
祖母なっちゃん
なっちゃん、久々に逢えたじいちゃんと今頃何を話しているんでしょう?
僕はあなたを誇りに思い、あなたの孫として産まれてきたことに心底感謝しています。
長い人生本当にお疲れ様でした。
ありがとう。
楽しかったよ。
どうぞ安らかにお眠りください。
ここに哀悼の意を表し、祖母の冥福を祈る。
在りし日の祖母。優しさをありがとう。バイバイ、なっちゃん。