【2020年7月豪雨】最上川氾濫、実家浸水
久々のエントリーがこのような内容でとても悲しく思う。
2020年7月末、山形県を襲った豪雨により最上川やその支流を含めた河川が氾濫、各地で浸水被害が発生したことは記憶に新しい。
悲しいかな僕の実家もそのひとつだった。
同情を誘うつもりは毛頭ないしお見舞いの言葉が欲しいわけでもない。
自分の記録のためにここに記そうと思う。
先ずはこの度の豪雨災害で被害に遭われた皆様に心より御見舞い申し上げます。
皆様の生活が一日でも早く元に戻ることを祈念しております。
前提の話
僕の実家は最上川中流域、山形県村山市の山奥、限界集落的なところにある。
集落の中でも一番海抜が低く、50mほど先に最上川が流れているのが見えるという、まさに「川のほとり」に立地している。
このような環境であるから、僕の記憶にあるだけでも過去に二度、大雨により最上川の水位が上がり実家ギリギリのところまで水が押し寄せた。
一度目は何年前かも思い出せないくらいの幼少期、そして二度目は7年前の2013年7月。
その時僕はこんなエントリーをしている。
この時はギリギリながらも家屋まで水は来ず被害も免れた(その後一定期間断水になったのだが浸水被害は免れているため、前述記事の口調も今見るとお気楽なものだ)。
しかしあそこまで増水した最上川を目の当たりにすると、やはりその体験は強烈な記憶として残っており、その後ちょっと強めの雨が降ると両親に「(最上)川、大丈夫?」とメッセージすることが癖になった。
現在実家に居住しているのは両親二人。
僕は2011年に近隣自治体に新居を構え、弟夫妻は実家とは別の場所(同じ村山市内)に居を構えている。
弟夫妻の自宅は、いずれ両親との同居を考慮した二世帯住宅なのだが、父の生まれた土地への土着意識みたいなものがそうさせているのか、二世帯住宅完成後も実家を離れることはなく母と二人で生活し、たまに弟夫妻の自宅へお泊りに、なんていう生活を送っていた。
2020年7月28日
数日前から雨が降っては止んでを繰り返していた山形県。
この日も局地的な梅雨前線の影響で朝から雨が降っていたが、さして気に留めることもなく僕は業務のため早朝から山形県置賜地方にいた。
10時30分、前日くらいからこの日は雨足が非常に強くなるとの予報だったため、母に「川、大丈夫?」とメッセージを入れると、その時点での最上川の写真とともに「少しずつ(水位)上がってるけど大丈夫だと思う」との返信。
しかし同日午後(だったと思う)山形県全域に大雨洪水警報が発令、雨足もかなり強くなっていた。
午前中は出先内で iPhone の緊急アラートが僕のだけでなく他の方のも鳴りまくる状態。
ただこの時点ではまだ「アラートうるせえなあ」などと笑っていられる心境だった。
15時、妻と長女が毎年お世話になっている方より「ご実家大丈夫ですか?」とのメッセージ。
その方が実家近くの橋を通りがけに橋下を見たときに既に水位がかなり上昇していたと。
正直この時まではどこか根拠のない楽観的な思考だったが、このメッセージで一気に緊張感が高まった。
なぜか?
7年前、上流の増水が中流域に流れ込んで実家付近の水位が一気に上がったのは、雨が止んだ後だったから。
このメッセージを頂いた時点ではまだ雨足はとても強かった。
天気予報を見てもあと数時間は相当雨が降るらしい。
これからますます水位が上がるのは火を見るよりも明らかだった。
16時、勤務する会社の事務員さんより、帰宅指示あったため事務員全員帰宅の旨メール受信。
ただ事では無い感がますます煽られる。
17時、両親より弟夫妻宅へ避難するとのメッセージ。
今読み返すと「大丈夫だと思うけど念のため」的なニュアンスが強かったように思う。
18時、出先にて業務終了。
置賜地方でも「あの辺の道路が冠水しているらしい」など様々な情報が錯綜、Web 上でも高速道路の一部通行止めなどを確認。
普段通らない一般道を通り、山形上山インターより東北中央道へ。
北上し東根北インターで高速を降り実家へ向かうものの、村山市中央付近や同名取付近が冠水で通行止め、仕方なく別ルートを走り二箇所ほど冠水しかかっている地点を突っ切りながら、地元の者しか知らないような小道を通る。
20時、実家へ到着。
小雨になっていたものの既に川の水位は前述した7年前の最大水位の8割位にまで到達、水位が下がる様子は皆無。
誰もいない実家に入ると電気が付く。
父に電話して漏電・ショートからの二次災害防止のためにブレーカーを落とす旨伝える。
一旦待ったがかかり、その10分ほど後に両親共に実家に来て、各所の確認。
貴重品の持ち出し確認、一階に置いてあった冷蔵庫内の食料品を大型クーラーボックスに回避、仏間の仏具などを高い場所へ回避など、その場で思いつくこと、出来ることをやってブレーカーをオフに。
外に出ると、この間約40分程で水位が異常なスピードで上がっていた。
増水の早さに浸水は免れないだろうとある程度の覚悟。
「さあ避難するぞ」と声を掛けたときの、父が家屋を見る背中になんとも言えない寂しさを感じる。
あんな父の姿は一生忘れることは出来ないだろう。
21時30分、自宅へ帰宅。
不安がる妻子には余計な情報は与えないようにはしたが、一言「じぃじとばぁばの家、ダメかもね」とだけ伝える。
Web 上で最上川の水位をリアルタイムで 確認 。
22時過ぎ、上記サイト上、中流域のほぼ全ての観測所が「氾濫危険」を示す。
水位が下がっている観測所はひとつも無い。
23時30分、強い不安を感じつつも就寝(ほとんど眠れなかったが)
2020年7月29日
4時前、起床。
着替えて実家へ様子を見にいく準備をしていると弟よりメッセージと数枚の写真。
実家浸水。
覚悟はしていたつもりだが、改めて写真でその様を見てしまうとあまりにも衝撃が強く座り込んでしまう。
その場にいる弟と両親に電話連絡。
まだ水は引いていないが、家屋に付いた水の跡を見ると最大水位よりは徐々に引いている感じがあるとのこと。
しかし今実家に行ってもまだ水が引いておらず何も出来ない旨伝えられ、午前中は業務に向かうことに(本心はすぐにでも駆け付けたかったが、大事な業務内容でまさかこんなことが発生するなんて思っていなかったから同僚へ引継ぎなども行っておらず、苦渋の選択だったことは書いておきたい)。
5時、上司・同僚へ実家の被害状況と、午前の業務終わり次第実家に向かわせてもらう旨グループメッセージにて送信。
上長の承諾を得て出先へ。
8時、出先到着。
事情伝え、ご迷惑おかけすることを謝罪、全く集中出来なかったが午前の業務がスムーズに終了。
10時30分、出先を出て実家へ向かう。
昨日通行止めだった区間も無事に通ることが可能。
車内のローカルラジオで被害状況など伝えつつもいつもと変わらぬ能天気な内容に、心穏やかではいられないものの「実際喰らってないとこんなもんかもな」と思うことに。
一旦自宅へ帰宅、汚れてもいい衣服に着替え実家へ。
近づくにつれて得体のしれない恐怖心を覚える。
空は腹立たしさを感じる晴れ模様だった。
12時、実家到着。
家屋からはだいぶ水が引いており、既に親族や地域の方々がたくさんいらっしゃって作業をしてくれていた。
前述のように両親の住む実家はこの集落で一番海抜が低く、この辺では実家家屋だけが浸水した(正確に言うとご近所の方の小屋?作業場?も浸水したが日常の生活空間ではない建物だった)。
そのため集落の方々や隣の地区の皆様は身体・住居共に無事で、この辺で唯一浸水した実家に御厚意で駆けつけてくれていた。
さらにこの集落には土建業や建築業、左官業などを営んでいる方々が多い。
そういう方々はいわゆる重機を所有しており、わざわざその重機を持ち出して頂き一階部分の水に浸ったり流れた大型・小型の家財などが既に屋外に運び出されて、廃棄するものと残すものの選別なんかも終わっていた。
そして屋内に入り込んだ泥も高圧洗浄機で流し出していた。
さらに職人さんを派遣して頂いて、畳の撤去、剥き出しになった床板も剥がして、床下に入り込んだ泥を撤去している真っ最中、乾ききらない泥には現場で使用する大型送風機で乾燥といった様相、一番手間がかかるであろう作業はひと段落している状態で、遅れて来ざるを得なかった自分が情けないながらも地域の方々の笑顔に両親も弟も僕も救われたように思う。
弟はと言えばある団体で保険業に関わる仕事をしている。
早々と同僚の方に連絡し、住宅保険の諸々のやりとりや現地調査に協力をしていた。
まだ時間が経過していない、浸水の跡が分かるうちに遠影の全体図と、ここまで水が上がったと分かる部分を指差しして近影を、そして水に浸ってダメになった家財を一品一品写真に納めていた。
どうやらこの写真を元に水に浸かった家財のリストを作成して住宅保険に申請するらしい。
また、行政に対して申請する罹災証明書発行に関しても、写真を撮っておくと色々と役立つこともあるらしい。
数年前に僕が骨折して入院したときも思ったが、この弟の頼もしさは尋常ではなかった。
14時頃、市の職員の方2名訪問。
何課の方かは失念したが、現地調査のため現場の写真を複数方向から撮影。
市内他地区の状況を伺うと、中二階まで浸水した家屋やカーポートが冠水したりしている家屋もあるとのことで、実家以上に悲惨な状況と知る。
また、これは同日 Twitter で知った情報だが、村山市中央付近の道路が完全に冠水、周辺の店舗や家屋も浸水していた。
この辺の交差点は前夜実家に向かう際に冠水しかかってたところを突っ切ったところであり、その先にある屋内スケートパークに子供達を連れて行くときによく通っている見知った道路だから、いつも多用していたコンビニの看板やドラックストアの看板がまるで湖面に浮かんでいるような写真を見た時は言葉が出なかった。
僕が不在の時間帯にも市役所別課の職員の方々が訪問したらしく、後日財務課?税務課?の方もいらっしゃったらしい。
住家被害認定の調査と思われ、この感じだと固定資産税は免税、(いつまでかは不明だが)電気料金 or 水道料金が免除になるとのこと。
状況確認や今後の様々な手続きのためにはいろんな課の方の訪問が必要なことを知る。
被害状況を確認しているのか、ヘリコプターが幾度も幾度も頭上を通り過ぎて行った。
17時30分、この日の作業は終了。
両親の心身を案じながら帰宅。
2020年7月30日以降
翌日以降も近隣の方々やさまざまな方々の御手伝いを頂く。
前日掻ききれなかった床下の汚泥を掻き出し掃除、送風機でひたすら乾燥。
汚れたところをざっくりと水で流していただけだった諸々の物をしっかりと洗浄。
ボランティアの皆様の手助けもあり、災害廃棄物の運び出し。
屋外、屋内の汚泥が入り込んだ場所の消毒など。
8月3日より罹災証明書発行申請開始され即日申請。
その他の申請も適宜行っている模様。
また、浸水当日は川の水が引かず近寄れなかったが、翌日以降近隣にあるさくらんぼ畑などの被害状況確認。
幸いさくらんぼの樹々は無事だったが、ジャガイモなどの地中に成る作物は水を多く被り諦めた方が良さそうと。
またトマトや茄子、きゅうりなども仕立てしていた支柱がほぼ全てなぎ倒されたりと、壊滅的な状況。
さくらんぼ以外は出荷目的ではないため、金額的な損害は大したものではないと推測出来るが、それでも汚水の被ったところは消毒を行い再度使える土壌に戻す作業。
時間の避ける限り実家に足を運んで様子を見に行ったが、大きな作業は浸水4~5日後にはほぼ終わった(父の言う大きな作業の中には畑関係の作業も含まれていたフシもあり、家屋だけに限って言えば実質3日後くらいには終わっていたのかもしれない)とはいうものの細かい作業が残っている状態だった。
また、浸水直後混乱している状況下での家財搬出だったため、時間が経過した後に「あれはどこにある?」「これはどこだ?」と細かいものの所在が、流されたのか?廃棄したのか?それとも二階に回避しているのか?など今現在も失念している物も多い。
8月10日、浸水直後から乾燥させまくった床下・床上部位の様子を見て床板を敷き詰める作業開始。
それまでは床板が無いため今後使用していけそうな家財道具の一部を屋外に置かざるを得なかったが(もちろん風雨の対策あり)、これで屋内搬入可能となる。
また、ここで起こったことは事実としてしっかり子供達に伝えることが必要なのでは?と思い床板を貼る直前に妻と子供達を実家に連れて行った。
妻は浸水当日の片付けを手伝いに来てくれたが、子供達にとってその光景は衝撃的過ぎるだろうし、連れて行っても確実に作業の邪魔にしかならないのは分かっていたから一切足を運ばせておらず、出来るだけいつも通りの生活をさせるように心がけた。
徐々に片付けも進み、状況も落ち着いてきて、今なら子供達を連れてきて自然の怖さみたいなものを感じ取ってもらってもいいかもなと判断、床板を貼るという同日に連れて行くことにした。
案の定床板の無い一階部分を見て二人とも「うわぁ」と漏らすも、間も無く剥き出しになっている床下の支柱などに乗って歩き出して楽しんだり、素朴な疑問を両親に投げかけたりと、何かを感じ取ってはくれつつも子供だから故の無垢さで両親も救われたのではないかと思いたい。
この日からなんとなく「片付け」「掃除」から「再建」という次のフェーズへと移った感じがする。
ようやく書ける、感じたこと
ここまでの文は浸水被害一週間後くらいにはだいたい書けていた。
ここから先は、先も記載したように「再建」という次のフェーズに入ったと感じる今だからようやく書ける。
まずは両親の身が無事で本当に良かった。
心底その一言に尽きる。
一方でまさか自分の生まれ育った実家が浸水被害を被り、自分の肉親が被災者になるなんて想像すらしていなかった、というのが正直なところでもある。
7年前の浸水ギリギリという状況を経験していても、まさか本当に浸水してしまうなんて思ってもいなかった。
東日本大震災や九州の地震、ここ数年の豪雨災害、どれも胸が締め付けられたがやはりどこか他人事だった。
この記事を読んでいる皆さんも多分そうだよね?
出来るだけ被災者の方々に寄り添おうと思う方はいらっしゃるかもしれないけど、まさか自分の身内、もしくは自分が「喰らってしまう」なんて夢にも思っていないと思う。
それを否定するつもりは全くなくて、事実僕もこの日まではそうだったし、「喰らってしまった」からといって今までの傍観者的な自分を悔いるような感情も全くない。
実体験として経験してないんだから傍観してしまうのも仕方ないじゃんね。
想像力の欠如なのかもしれないけど、実体験を伴わないことに対する想像力なんてたかが知れてるよ。
まして自然災害だしさ、お天道様のご機嫌なんて誰も分かんないし普段意識すらしないじゃない?
でも、自分の両親が直接的な被災者となってしまったことで初めて、やるべきこと、やらなきゃいけないこと、沸き起こる自分の中の感情など、今までいかに自分が傍観者であり安全圏側の思考だったかなど、良い意味でも悪い意味でもいろんなことを知ることになる出来事だった。
ドラクエ的にいうとヒットポイントは激減したけど経験値は急増したという感じかな。
「喰らってみなきゃ分かんない」ことっていっぱいある。
避難のマニュアル?
家屋の処置?
罹災証明書?
住家被害認定?
保険?
支援制度?
お恥ずかしい話だが、言葉では朧げながら知っているものの、実務として何をどうすればいいのかなんて全く分からなかった。
避難のときは無我夢中で考えられることをやるしか無かったし、その後の家屋の処置などは本職の方々の助言があったからこそだし、地域の皆さんやボランティアの方々の人出があったからこそ迅速に出来た。
事務手続きなどは前述のように弟がその一切をほぼやってくれた。
結局僕はこういうとき力仕事しか出来ないんだなと無力さを痛感した。
せめてフィジカルな面とかマインドの面で両親を支えようとは思ったが、それが良い方向に向かったのか、それとも逆だったのかは今でも分からない。
父にとって生まれ育った土地・家だけど僕にとっても同様だから、メンタル面でちょっとだけ不安定になっている。
起きてしまったことは仕方ない、出来るだけそう思うように心がけてはいるけれど、ここだけ時間が止まってしまった感覚になっている。
もちろんそんなことはなく周りは普段通りに時間が進んでいるから、そのギャップにいろんな局面でムカついたのが正直なところではある。
でも、冷静に考えればこの「ムカつく」という感情は「被害者意識」そのものなんだよね。
皆悪気がある訳では全く無いし、やっぱり(悪い意味ではなく)「喰らってないから分からない」のは至極当然でこちら側の気持ちに寄り添えなんてのは無理な話だし、皆自分の生活がある訳だしさ。
しかも実際に被災したのは両親であって僕ではない。
「被害者意識」全開のネガティブな感情で物事を捉えて他者にそういう感情をぶつけると、両親を「被災者様」として扱えと言っているようで、それだけは一番避けなければならないことだと思ったから、出来るだけ周りで起きていることに関しては平静を心がけるようにした(ただし浸水当日の後片付け中、近くの橋の上から増水した最上川の写真をわざわざ車から降りて、キャッキャキャッキャいいながら小綺麗な格好して笑顔で写真撮ってた若い女性、どこの誰かも分からんけどお前のことだけは絶対に許さない)。
僕が浸水直後からこの現状を SNS などで一切アップしなかったのもそういうことが理由だったりする。
必要と思われる人には状況を説明したし、「実家大丈夫だった?」と聞かれれば答えたけど、能動的に自分から発信はしなかった(一度だけ Instagram の投稿にほんのちょっとだけ匂わせることは書いたが、実家が浸水したとは書いておらず、今日まで出来るだけ普段通りの投稿をした)。
同情されたくないとかそういう無駄なプライドが邪魔をしてなんていうのじゃなくて、両親を「被災者」として晒したく無かったし、自分が「被災者に寄り添え」などと捉えられてしまうみっともない家族になりたくなかった。
ネガティブなことを書き込んで「被災者様」と鼻に付くように感じさせるのは不本意だし、なによりそうは見えないように取り繕ってるけど心に傷を負ったであろう両親にこれ以上余計な心労はかけたくなかった。
「再建」というフェーズに移ったと感じたからこうやって書くことが出来るけど、まだちょっと気持ちが完全に上向きになっている訳ではないから、文字では書き起こせてもその時の写真をアップできるような気持ちにはなれずにいる。
今後「そんなこともあったね」と完全に消化し切れる時が来たら写真を追記出来るのかもしれないけど、まだしばらくはそんな気持ちにはなれないと思う。
このエントリーだって本当はアップしない方がいいんじゃないか?とも思っていて、公開するのをすごく迷っているんだけど、起きたことを自分が忘れないためにここまで書き起こしている。
地域の方々には大変助けられて何度御礼を言っても足りるものではない。
よくネット上では「田舎の強すぎるコミュニティ」はネガティブな面だけが揶揄されるが、今回ほど「田舎の強すぎるコミュニティ」に救われたと思ったことはない。
遠く安全圏から「ああしろこうしろ」と言われるよりも身近なコミュニティの方がよっぽど頼りになったし心強かった。
地域の方々のサポートがあったからこそ、うちの実家はスムーズに「片付け」「掃除」のフェーズを乗り越えられた。
これは地域の方々の思いやりの気持ちが全てだけど、両親の人徳や地元で仕事をしている弟のおかげだとも思う。
行政の対応はとても素早く心強いものだった。
前述したように市の職員の方々は当日から何度も足を運んでくれて、諸々の対応をして頂いた。
村山市のFacebookページ ではリアルタイムで避難指示の情報や避難所情報を発信、かつ30日には早々と災害ボランティア募集・派遣を開始して、実際災害廃棄物の撤去などボランティアの方々に大変お世話になった。
コロナ禍で、村山市のボランティア募集は同一市内の方のみだけだったようだけど、それでもそれが安心感にも繋がったし、なにより平日日中など僕が行くことができない時間帯の災害廃棄物の運び出しなどは大変助かった。
現在別自治体に住む僕は
「村山の人が羨ましい」
心底そう思った。
今、猛烈な帰属意識を覚えている。
今回県内で被災した方々と比較したら(比較するのは野暮なんだけど)ウチの実家はまだ不幸中の幸いだったと思う。
被災はしてるんだけど、既に弟夫妻が居住している二世帯住宅があったから、その後の住まいには困らなかった。
集落で被災したのは実家だけだったから、地域の方々の集中した御協力を頂けたおかげでスムーズに「片付け」「掃除」から「再建」まで進めたように思う。
行政の動きもとても早かった。
まだ気を張っているのかもしれないけど、両親ともに健在だ。
ただ、今まで当たり前だった日常がそうではなくなったのも事実。
毎年お盆に実家に集まって、お墓参りの後に両親、弟家族、僕の家族、親戚で楽しんでいた BBQ 、今年は出来そうにない。
母が趣味で作っていた農作物、今年は楽しめるか分からない。
最近の異常気象もあり、同じことが起こらないなんて保証はどこにもないから、すでに二世帯住宅があるにも関わらずまだここに住むのか?というモヤっとした感情も残る(これに関しては僕は別自治体に出てしまった者だから父の意思を尊重して口を挟むべきではないと思っているが、弟も同様に思っているらしく、折り入って話をする機を伺っているとのことで、そのときは無駄口叩かず揉めることの無いように、やんわりと介入したいと思っている)。
もうすぐお盆を迎えるから、なんとか仏壇綺麗にできて観音開きを開けれて良かった。
改めて、とんでもない経験をした。
経験したくないような経験をした。
僕は聖人君子じゃないし、エゴの塊のような男だから、はっきり言えばもっとドス黒い感情も無い訳ではない。
でも前述したようにここに書くべきではないし、人に話すべきことでもない。
実害のなかった僕ですらメンタルやられそうになっているのだから、両親の心中は察して余りある。
しかし二人は気丈に振舞っている。
元の生活に戻れる前、畳とか敷いてしまう前に、両親と弟、そして僕の4人で板貼りされた実家内で写真を撮ろうと思っている。
元の生活に戻ったら僕はまた傍観者に戻ってしまうだろう。
傍観者に戻ることが悪いことだなんて微塵も思っていないけど、人間は忘れる生き物だなんていうから、こういう経験をしたという事実を忘れないために写真を撮っておきたい。
今は両親に寄り添い弟に協力しながら、元の生活に戻るためにやるべきことを粛々とやっていこうと思っている。
最後に、浸水被害にあってから発見したのだが、有志の方が作成した浸水被害からの生活再建の手引きなるものが記載されているサイトを見つけたのでここにリンクを貼っておく。
願わくば誰も実際に使うハメになって欲しくはないが、万が一のときは再建の一助になればと思う。