凄惨の先

とても嫌なニュースで今週頭の朝を迎えた方も多いでしょう。
イスラム国の人質事件は最悪の結果となりました(いろんな情報を見る限り断定してもよさそうです)。
政府や関係者は一丸となって本件解決に立ち向かってきた訳ですが(そう思いたい)、空しいものとなってしまったのではないでしょうか?
政治的なことはあまり書きたくないのですが、思ったことがあるので備忘録的に。





国際社会の中の日本

この度の事件の解説は他所にて暗記するほど書いてあると思いますので、わざわざここで書くことは致しません。
私は切り口を少し変えて、今回の経験を踏まえて日本が国際社会でどう生きていくのかということを考えてみたいと思います。

日本は第二次世界大戦後、一貫してアメリカに守られてきました。
このおかげで経済的繁栄を享受したことに異論はないと思います。
しかし今、安倍首相は成熟し戦後70年経つ日本社会において二つの命題を掲げました。
一つは憲法改正、一つは自衛権です。

現在の日本国憲法はGHQが草案を作成したものであり、日本側に十分な検討、検証、推敲の余地はありませんでした。
言ってみれば戦後の平常時ではない状況下において作られたものが現在の日本国憲法です。
憲法ですから精神的概論ばかりではなく、日本の行くべき大きなベクトルを設定しています。

自衛についても

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。


前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。



以上でありその解釈の仕方は時代と共に変っていますが、当然ながら解釈の一定の限界は存在します。


変化している争いの形

そんな中、世の中の争いの在り方は大きく変わってきました。
いわゆるかつての常識的な戦争とは、陸海空軍の武力による衝突であり、多大なる犠牲と損失を巻き込む力と力の戦いでした。

ところが、今までの常識だったこの戦い方は、特にこの10数年で大きく変貌したのではないでしょうか?
9.11に代表されるテロ事件はその後、無数の自爆テロ事件を含め地球ベースで数多く起きました。
今年に入ってフランスで起きたテロ事件は今回の日本の人質事件の影となり、ニュースではもはやあまり見かけなくなっています。
また、ソニー配給の映画をめぐり北朝鮮とアメリカの間で激しいサイバーテロとその報復がありました。

もちろん、テロそのものは最近始まったわけではなく昔からあったのですが、テロリズムという言葉自体が新しく、また、戦い方が時代の変化と共に変わってきた点は注目すべきでしょう。
例えば戦時中、日本が開発中だった細菌による攻撃研究はアメリカがその研究成果を持って行ってしまったとされています。
これが使用されればとてつもない細菌テロですし、オウムの地下鉄サリン事件もテロと同じです。

これは世の中の争いの定義が変ってきたと言ってもよいのではないでしょうか?
つまり極論すれば憲法9条は一世代前の戦争のやり方に呼応するものであり、新しい戦い方にフィットしているか全く未知です。


国際社会で舐められない日本にするには?

安倍首相はこの人質事件が一段落したところで大きなハードルを越えなくてはいけないことになります。
それはテロと戦う(「戦いに支援」でも広義では同じと個人的には思う)と宣言した意味をもう一度考えることから始まるでしょう。
英米の呼びかけに乗じたところもあるし、テロを撲滅させるのは世界の共通の課題であることは確かです。
しかし、戦闘能力を持ち、多大なる経験があり、諜報に長け、資本や人材を通じて世界の末端まで影響力を持つ国と同等のことができると思われる覚悟は必要だということです。
要は国際社会で舐められない日本になるということです。
「戦う」とはメンタルな部分よりもフィジカルな部分でとらえるのがナチュラルです。
日本が憲法上どれだけ制約があろうが、他国やテロを仕掛ける側にそんなことは分かってもらえません。
「戦う」とはそれぐらいの強い意味があります。

安倍政権は上述の二つの課題、憲法改正と自衛権について国内の調整を中心に野望実現のためにここまで努力してきました。
ここからの安倍首相の動きが注目に値すべきところです。
テロに本気で戦う気があるのか、扇動だけして今回の事件で萎んでしまうのか、これは安倍晋三の政治生命にかかわる判断になるかもしれません。

私は今回の事件は日本人にも日本国にも痛ましいことになりましたが、国際社会においてどれだけ我々の常識が通じないのか、交渉が難しいのか、日本外交の弱さを露呈したと思っています。
ここは安倍首相に強い宰相として立ち上がり、深い反省と共に今までの何倍も強くなる姿勢を見せてもらいたいと思っています。

争いのない世界が理想的なのは百も承知です。
でも正直争いのない世界、争いのない社会など実現出来る訳がないと、個人的には思っています。
我々の生活にも普通に争いがあります。
高校入試だって争いです。
大学入試だって争いです。
就職活動だって争いです。
出世のための社内営業だって争いです。
個人レベルの争いと国家間の争いを一緒にするなとお叱りを受けるかもしれませんが、根本は一緒だと思います。
不幸にも争いが起きてしまった際、相手に舐められないということは、その後のアドバンテージを握る上で大事なことです。
国際社会で舐められない日本になるためにはどうすればいいのか?
閣僚の皆様には真剣に舵取りをして欲しいと同時に、我々も危機意識を持っていかなければと思います。

最後に、こういったエントリーには必ず批判的な感情を持つ方もいらっしゃると思いますが、それはそれで仕方のないことです。
ただし、このエントリーは私の私的なものであり、私個人、右寄りでも左寄りでもないですし、一人の日本人として日本国の行く末を案じているということだけは申し上げてこのエントリーを結びます。