社会の中の自分

社会に飛び出してもう何年の月日が経ったでしょう。
社会の中に身を置いていると、自分で自分が分からなくなる時が多々あります。
社会に属する者として、「こうしなければ」と思う反面、1人の個として「これでいいのか?」と思う事もしばしばです。
みんなと同じである事に何の懐疑も無くなっているのかもしれません。
悪い意味でオトナになっちゃったのかなぁ?





隣人と同じ様に振る舞う事

特に思い悩むのが「隣人と同じ様に振る舞う事」が果たして本当にいい事なのだろうか?という事です。
企業に属している以上、その企業理念や販売戦略に基づいた行動をしなければなりません。
特に近年ではコンプライアンス重視の名のもとにますますその傾向に拍車が掛かっているような気がします。
もちろん足並みを揃えるというのはとても大事な事です。
同じ企業の者であれば、相手から投げられたアクションに対し、統一されたリアクションを相手に返さなければ、その企業の信用問題に発展する事だってあります。
リスクヘッジという意味でも、それは当然の事です。
でも本当にそれでいいんでしょうか?

例えば同一企業の異なる営業マンに同じ質問をしたとしましょう。
返ってくる返答がまるで準備されていたかの如く全く同じ返答が返って来る事も少なくありません(実際セールストークマニュアルは存在するのですが)。
その瞬間「うわっ、全然面白味ねーな」と思ってしまう自分がいるんです。
もちろん他者の事だけではなく、私自身にも当てはまる事が多々ある事は否めません。
投げかけられたアクションに対し間違った事を言ってる訳じゃありませんので、それでいいんです。
それでいいハズなんです。
しかし、例え自身が属する会社から指示されている方向性とはいえ、何の疑問も抱かず納得もせず隣人と同じ振る舞いをし、同じ考え方をし、同じ感じ方をし、しまいには同じ顔つきをする事で「幸福」と「快楽」、そして「安心感」を担保する事が、果たして本当にいい事なんでしょうか?
それで自分という1人の個はどこにいってしまうのでしょうか?
隣人と違う振る舞いをする事は社会人としてはアナーキーで「悪」な事なんでしょうか?

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思い悩む小生(どこから見ても俗物)


大衆社会

先日、手持ちの書籍を電子化しようと本棚を漁っていた折、入職後2年目位に読んだ一冊の本が目に止まり再度読み直してみました。
ドイツの文学者であり哲学者、ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」です。


フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(独: Friedrich Wilhelm Nietzsche、1844年10月15日 – 1900年8月25日)は、ドイツの古典文献学者、哲学者。
随所にアフォリズムを用いた、巧みな散文的表現による試みには文学的価値も認められる。


当時何故この本を購入したのか?
今では全く思い出せませんが、改めて読んでみると考えさせられる事が多々ありました。
そしてこの著書の中に、上記の問いに対するひとつの答えを見出せた気がします。
結構難解な言い回しで咀嚼するのに時間を要するのですが、私なりの解釈で「隣人と同じ振る舞いをする事」「隣人と違う振る舞いをする事」へのニーチェの思想を書き綴ってみます。

ニーチェの道徳論は「大衆社会の道徳論」です。
ニーチェによれば「大衆社会」とは成員達が「群れ」をなしていて、専ら「隣の人と同じように振る舞う」事を最優先に配慮する様にして成り立つ社会の事です。
群れがある方向に向かうと、批判も懐疑も無しで、全員がなだれ打つ様に同じ方向に殺到するのが大衆社会の特徴です。
これって正に、私が疑問に思っている事象そのものです。
ニーチェはこのような群衆に対して「畜群」と名付けました。
うーん、自分も「畜群」の一員なのかもしれませんね…
知らず知らず人間関係の軋轢に怯え、受動的に他者と画一的な行動をする事、身に覚えがあります。
ニーチェが批判したのはこの畜群道徳です。
畜群道徳の特徴は何よりもまず社会の均質化です。
社会の均質化が進み、みんな同じ様な顔つきをし、同じ様な考え方や感じ方をし、「みんなと同じ」を目指すのが畜群道徳です。
他人と同じ事をすれば「善」、他人と違う事をすれば「悪」。
それが畜群道徳のただ1つの基準です。
現代人は、「みんなと同じ」であることに「幸福」と「快楽」を見出す様になったとの事です。

では、ニーチェの言う畜群社会から抜け出すにはどうすればいいのか?
そもそも抜け出していいものなのか?
ニーチェは畜群社会から抜け出す唯一の方策として「奴隷」の対極に「貴族」がいると描いています。
この「貴族」を極限まで突き詰めた者が「超人」との事です。
しがらみも伝統も秩序も全くの無である、無から新価値を創造、確立する強い意志を持った者をニーチェは超人と呼んでいます。
しがらみも伝統も秩序も全くの無であるという事は、そこからあらゆる新しい価値、新しい秩序が構成可能だという事になります。
私なりの解釈では、超人とは畜群であることを苦痛に感じ、恥じ入る感受性、その状態から抜け出ようとする意志の事の様にも思えてなりません。
まあ、見方によっては超人とは単純にワガママで自分勝手な人に見えなくもないですが…

Nietzsche
深いよ、ニーチェ先生、ヒゲすごいよ、ニーチェ先生


超人たれ

「しがらみも伝統も秩序も全くの無」
そんな大それた思想を持つ事はなかなか出来る事ではありません。
若い頃は、自分に出来ない事など何一つ無い!なんていう無茶で幼い、しかし今思えばどこか清々しい気概を持っていました。
しかし、社会人としての経験を積めば積む程、そういった青臭い書生道だけでは生きていけない事に気付かされ、知らず知らずに周りを気にして、周りに合わせて生きて、ある意味自分が一番なりたくなかった大人像に近付いている様な気がしてなりません。
世の中を渡り歩くにはバランス感覚というものが大事ですから、周りを気にするというのは大事な事なのかもしれません。
しかし、何の疑問も持たず、自分でも納得しないままに周りと同じ様な振る舞いを行うというのは、一見賢い様ですが自己の存在自体を否定してしまう様にも思えてしまいます。
適度に周りと迎合し、適度に己の我を通す。
難しいですが、少しでも超人の域に近付ける様に自分の軸となる思考を常に意識して生きていかないとなと思っています。
うーん、相変わらず話の着地点の見えないエントリーだぜ…

3104punk
アナーキーだぜっ!超人になりたいぜっ!