ゲンと平和と国防と

ここ最近、漫画「はだしのゲン」が話題となっている様です。
なんでも、どこぞの教育委員会が学校の図書館に「はだしのゲン」を置くのはいかがなものか?というところから物議を醸し出したらしいです。
俗に言う「反戦教育」の一環なのか?はたまた「臭い物には蓋をしろ」的な発想なのか?
いずれにしろなかなか難しいですよねえ、個々の倫理観で答えが異なるこういう問題。





反戦漫画

最近、業務の絡みで知り合った広島県出身の方に非常に良くして頂いております。
その方と業務の流れで食事を共にした際の雑談で、広島での平和教育に関して教えて頂いた事がとても印象に残っています。
「広島では原爆は悪、戦争は悪という教育を受けて育ったので身体に思想が染み付いている。ごく最近まで多角的な視点で捉える事が出来なかった。」
とても考えさせられました。
それはそれでとても全うな事ですし、とても当たり前の事ではありますが、「なぜ戦争が起こったのか?」という根本的な教育がなされていなかったとも仰っておりました。
そういう会話をしていた矢先の「はだしのゲン」問題ですよ。
個人的には「はだしのゲン」ぐらいなら学校の図書館にあっても問題無いと思います。
ただし内容的には疑問に感じる点も少なくありません。
あの漫画はそこそこ分別のある子供にとって、教師が真剣に薦めれば薦めるほど冷やかしの対象になってしまいますし、逆に小学生ぐらいの子供にとっては描写が過激過ぎます。
要するにあの漫画はどういう読者を対象としているのか良く分からないところがあります。
作者の中沢啓治氏は子供にトラウマを植え付け、原爆の恐ろしさを伝えたい、と発言した事もあるようですが、やはりそのようなやり方は教育としてはいかがなものかと思わざるを得ません。
「はだしのゲン」はそもそも読み物としては未熟な作品だと思っています。
特に某政党系の雑誌に連載し始めた頃から、話の内容が露骨な政治批判やヒロポンの話など、本筋からの逸れ具合は酷いモノです。
もちろん前半部分は作者の執念のようなモノが伝わってきて反戦漫画としてはそれなりに読み応えもありますが、全体としては果たしてどうなのか?という内容です。
同じ原爆でも、戦争の恐ろしさを十分に学ぶことが出来る漫画は沢山あります。
結局どこぞの教育委員会が前言撤退したためこの問題は終息に向かっている様ですが、「何故はだしのゲンだけが槍玉に上がったのか?」逆に「何故はだしのゲンでないとダメなのか?」という点が曖昧なままの様な気がしてなりません。


戦争と平和

義務教育で平和教育を行うこと自体は賛成です。
何の異論もありません。
むしろやるべきでしょう。
ただし「平和教育だけ」というのはどうなんでしょう?
平和を教えるのであれば戦争についても教えるべきなのではないでしょうか?
日本の平和教育は、
「平和=善」
「戦争=悪」
という単純な二元論、もっと言えば「反戦教育」であって、大昔の「バイク=悪」に近いモノがあります。
依然マスコミを含め大半の日本人は「国防」「戦争」「自衛隊」「軍事」等の言葉を聞くと、条件反射的に「反対」と言って思考を停止してしまいます。
一方、「平和」という言葉はやたら使いますが、具体的な政策になると口を閉ざします。
誰だって「戦争」より「平和」が良いに決まってますよ、そんなもん。
しかし、如何にしたら「平和」を獲得できるかに関しては論じられる事さえタブーな風潮がないでしょうか?
「平和」をいくら宣言しても、千羽鶴をいくら織っても、平和はやって来ません。
見たくない戦争や脅威の実態を正面から見つめ、戦争にならぬよう世界各国と一緒に汗を流し、そして時には血を流す覚悟も持たなければ平和は決して獲得出来ません。
平和は得るものではなく、努力して勝ちとるモノだと思うのですがいかがでしょうか?
「汝、平和を欲すれば、戦争を理解せよ」とイギリスの戦略家リデルハートは言いました。
フランスの英雄ドゴールもこの様に言っています。
「もちろん戦争は悪である。このことを真っ先に認める。しかし戦争は避けて通れないのが社会の法則である。戦争を世界から拒否するというのはユートピアでしかない。」


ダチョウの平和論

憲法9条を守ってさえいれば平和が維持できるという方々がいます。
完全な思考停止の典型です。
考えている様で考えていません。
そもそも憲法とは、その時期の世界状況等を加味した上で策定されるモノです。
現在の日本国憲法が作成されたのはいつですか?
その時と現在では世界のパワーバランスや、日本が置かれている状況はまるで異なります。
日本が戦争を放棄しても、戦争が日本を放棄してくれません。
極論の様ですが、それが厳しい国際社会の現実です。
国防や安全保障などは本来逆説的なモノです。
最も懸念される事態にしっかり準備しておけば、結果的にそのような事態は発生しにくくなるのが現実です。
それが抑止力であり、平和を獲得する最良の方法だと思います。
考えたくない事を考える。
最も起こって欲しくない事を考える。
これが国防の基本だと思います。
日本は言霊の国と言われています。
不吉な事を言うと、それが現実になるから止めようという傾向がないですか?
第二次世界大戦敗戦後、「食うに食なく、住むに家なし」の苦しみを味わった国民が「戦争のことを考えなければ平和が続く」と言霊の傾向に拍車をかけたことは無理もありません。
しかしそれは「火事が怖いから消防車はいらない」、「病気が怖いから医学はいらない」と言うのと同じくらい幼稚で愚かな事です。
戦後、大学から「軍事」や「戦略」などの講座が消えました。
2000年代になってようやく某大学で「戦略論」の講座が復活したと聞きます。
理性を代表する最高学府においてさえこの状態です。
軍事や国防をタブー視することが「平和国家」のあるべき姿とする空気が未だに日本を覆っています。
そういう姿勢を諸外国は「オストリッチ・ファッション」といって軽蔑します。
オストリッチとはダチョウの事です。
ダチョウは危機が迫ると穴に首を突っ込む習性があるそうです。
迫り来る怖いものを見ないようにして危機を回避したつもりになる訳です。
日本の安全保障政策は、まるで「ダチョウの平和」だと軽蔑する言葉が「オストリッチ・ファッション」です。
アメリカの庇護の元、国の防衛については思考を停止し、わき目も振らず経済復興に専念できた冷戦時代は、言ってみれば神風の吹いた時期です。
冷戦が終わり、これまで抑制されてきた民族紛争、宗教対立、領土やエネルギー問題、核やミサイルの拡散といった問題点が一挙に噴出し、日本の周辺も俄然きな臭くなってきました。
一方、頼みとしていたアメリカの力は衰退し(それでもまだ超大国ですが)、以前のようにアメリカ任せで安逸をむさぼってはいれなくなりました。
降りかかる火の粉は自らの手で振り払わねばならなくなっているのが現状です。
「平和の素晴らしさ」一辺倒では、結局「ダチョウの平和論」から一歩も抜け出ることは出来ません(もちろん現場の先生なり、その上の組織なりが反戦教育を行うこと自体を目的としていることは想像できますが)。


真の平和教育とは?

国際政治学という学問が長い年月をかけて辿りついた結論は、「結局、国際関係を安定させるのは武力による抑止と勢力均衡である」(リベラル派はこれに「経済の相互依存の深化が戦争を遠ざける」と付け加えますが)という古典的なモノです。
つまり平和を理解するためには戦争や軍事を学ばないと盲目的な平和論から一歩も進めないという事です。
日本が現在「平和」なのは、戦後の教育の賜物ではなく、在日アメリカ軍と自衛隊の存在であるということは言い過ぎでしょうか?
もちろん現在の義務教育の体系では本格的な戦争論を教えることは出来ないとは思いますし、現場の意識改革も必要だとはおもいますが、「出来ない」ではいつまで経っても前に進みません。
イギリスの小学校では日本と違って歴史の授業できちんと現代史を教え、また社会見学などでよく軍事博物館などを訪れるそうです。
これは近代以降ほとんど戦争に負けたことがないイギリスだから可能な事かもしれませんが、軍事博物館での展示は基本的には兵器の客観的なスペックの紹介や戦場での使われ方になります。
戦争の悲惨さなど感情的に訴えるような展示はほとんど無いそうです。
子供にとって軍事博物館とは、戦争の歴史や国防の重要性を学ぶ「場」以上でも以下でもありません。
「戦勝国」イギリスの真似をして今すぐ子供たちに遊就館や大和ミュージアムを見学させろ、とは言いませんが、本当に「はだしのゲン」が平和教育を学ぶために適切なのか、そして日本の平和教育そのものが妥当なのかについて一度議論した方が良いように思うのは私だけでしょうか?

追伸
内容が内容ですので、先述した広島県出身の方にアップ前に当エントリーを読んで頂きました。
その方個人的には問題無いとの事ですが、このエントリーを読んで色々と思う方も多々いらっしゃるかもしれません。
お手柔らかに、生産性のあるディスカッションをお願いします。