プリンシプル
ずーっとずーっと見たかったドラマがありました。
レンタルショップを検索するも、南東北でそのドラマのDVDを扱っているのは仙台に1件のみ…
こうなったら自分で購入するしかないと思い、遂に念願だった作品を入手出来ました!
「こうありたい」と思える男の生き様を堪能!
そのドラマとは、“NHKドラマスペシャル 白洲次郎”
白洲次郎(しらす じろう、1902年2月17日 – 1985年11月28日)は、日本のオピニオンリーダー、官僚、実業家。終戦連絡中央事務局次長、経済安定本部次長、貿易庁長官、東北電力会長などを歴任した。
戦前は近衛文麿首相のブレーン、終戦後は吉田茂首相の側近として連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)と渡り合い、「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた。Wikipediaより引用
出演者の素晴らしさ
私が大好きな俳優である伊勢谷友介さん @Iseya_Yusuke が、骨太な白洲次郎役を熱演しています。
もともと白洲次郎その人が「日本人で初めてジーンズを履いた」「英国留学時代から、スーツはロンドンのサヴィル・ロウにある老舗テーラー”ヘンリープール”などで仕立てていた」などオシャレなイメージがありますが、まさに伊勢谷さんにうってつけな役柄でした。
今までは「オッサンくさい」と絶対に着る事のなかった3ピーススーツも、伊勢谷さんが着れば最高にカッコいい。
おかげで私も今期から3ピーススーツデビュー。
出来れば財界に戻った後の東北電力オーナー時代や軽井沢ゴルフクラブ時代のエピソードも欲しかったところですが、全3回4時間半でこれくらい表現出来たのは素晴らしい。
話は逸れましたが、その他の共演者も大変熱演されており、やはりドラマはNHKだなと感じずにはいられませんでした。
白洲次郎役の伊勢谷友介さん
初めてドラマ化された白洲という男
白洲次郎は「我々は戦争に負けたが、奴隷になったのではない : Although we were defeated in war, we didn’t become slaves.」が口癖で、イギリス仕込みの英語で主張すべきところは頑強に主張し、GHQ要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめたといいます。
昭和天皇からGHQ最高司令官ダグラス・マッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた時に「その辺にでも置いてくれ」とプレゼントがぞんざいに扱われたために激怒して「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせた等、有名なエピソードに事欠かない人物です。
その生き様に、近年白洲次郎人気がジワジワと盛り上がっているとの記事を読みました。
何故白洲は白洲という傑物であり続けたのか?
以下では私的な考察を述べていきたいと思います。
生前の白洲翁
白洲次郎とは何者なのか?
白洲はいわゆる特権階級の生まれで、名門旧制第一神戸中学(略称神戸一中・現在の兵庫県立神戸高校)卒業後、当時はよほどの富豪でないと留学できなかった英国ケンブリッジ大学で学び、イギリス流のエレガンスと完璧な“キングス・イングリッシュ”を身につけ帰国しました。
おそらくはこのイギリス留学中に白洲次郎は白洲次郎になったのではないでしょうか?
イギリス貴族と親友関係になり、生涯交際を続け、そこで「カントリー・ジェントルマン」とは何か、つまりイギリス貴族のあり方を知る事になります。
普段は田舎に住んでいて、何か事があれば中央に出て行き、ロビー活動したり有力者に働きかけたりして、間違った政治を直させる、それがイギリス貴族の役割だということを、身をもって彼は知った訳です。
そしてセールフレーザー商会(当時英国屈指の商社)や日本水産でビジネスマンとしての腕を磨く一方、吉田茂や、時の首相・近衛文麿の知遇を得て親交を深めていきます。
英米と戦争をしても勝てる訳がない事を知っていた彼は、開戦の報を聞くと東京郊外の町田市鶴川に疎開して農業に従事しました。
「疎開」という言葉もなかった時期に疎開し、自分の身は自分で守り、自分の食べる物を自給自足していたというのですから、世界情勢を見定める先見の明があったとしか思えません。
終戦後は吉田茂の片腕として、GHQと日本政府との連絡役である終戦連絡中央事務局参与(後次長)に就任します。
そしてGHQ民政局に対し、敢然と立ち向かっていくのです。
プリンシプル
残っている記録を見てもGHQは非常に手強かった事は想像に難くありません。
彼らは日本を二度と戦争のできない国にするため、従来の指導者層を公職追放で一気に社会から排除し、工業と商業を担ってきた財閥を解体し、自分たちの思想を植え付けるため自ら憲法草案を作成し従わせました。
学校の勉強しかできない秀才は茫然自失になる事でしょう。
秀才は「定石」には抜群の力を示しますが、経験したこともない局面になると、とたんに神通力を失ってしまいます。
なおかつ、自分が必死に築き上げた社会的地位が終戦で一気に崩れ去った訳ですから、中にはGHQに媚を売る輩さえ現れました。
その点、白洲次郎という男はブレませんでした。
「自分の頭で考えること」の大切さを早い時期から理解すると同時に、損得ずくではない本当に尊敬できる人々との人脈を形成していたのです。
白洲次郎は、戦中、戦後と激動の時代を生きた人。
彼はその時代の両方を生きて「変わらなかった」。
筋を貫いたというのが一番すごい気がします。
確かに白洲は長身でスタイル抜群、苦み走ったいい顔をしていて今風に言う「ちょい悪オヤジ」です。
しかし、それが彼の格好良さではありません。
白洲の圧倒的な「人間力」、それが彼全体を輝かせているのだと感じます。
では白洲はどうやってそれを身につけたのか?
その謎を解く鍵は、彼がよく口にした「プリンシプル(principle)」という言葉の中に隠されているようです。
「ブレない」人間は格好いいものです。
「ブレない」ためには自分の生き方の「軸」を持っていないといけません。
それを白洲流に表現したものが「プリンシプル」なのだそうです。
※プリンシプル : 日本語では「原理」「原則」などと訳される様です。
ビジネスマン白洲次郎
実は白洲次郎は、「僕はビジネスマンだから」と、よく口にしていたらしいです。
それは彼が、ビジネスの世界にいたことにささやかな誇りを持っていたからではないかと推測します。
金持ちの息子の彼が忍耐力を持っているはずがありません。
若い時はお坊ちゃんのご多分に漏れず、堪え性がなかったため、よくトラブルを起こしたそうです。
ところがビジネスの世界に入ってはそうはいきません。
ここで初めて彼は頭を下げることを知りました。
駆け引きを知りました。
「結果」を出さないと誰も評価してくれないことを知りました。
そして何よりビジネスは、突き詰めていけば人と人とのつながりが生み出すものだということを知ったのでしょう。
敗戦・占領という「2000年に一度の危機」に彼がひるむことなく立ち向かっていけたのは、生来負けず嫌いだったこともあったでしょうし、英国で教育を受けたことで米国人を舐めてかかれる心の余裕を持てたのではないでしょうか?
ですがそれ以上に、彼がビジネスマンとしての経験を積んでいたことが大きな強みになっていたと考えます。
彼は人脈を駆使し、先を読みながら先手先手を打ち、何より「結果」を出すことに固執していきました。
彼の顕著な功績に通商産業省の創設がありますが、これなどは、彼がもともと役人でなくビジネスマンだった事が成功のカギを握っています。
それまでの商工省は内需拡大型官庁だったが、白洲は自らの成功体験(水産加工品輸出)から加工貿易に目をつけ、貿易振興重視の役所への衣替えを画策しました。
「結果」を求める局面で、理想論や過去に囚われていては前に進めなくなります。
白洲は商工省の持つ長い歴史に後ろ髪を引かれる事なく、驚くべき短期間で、商工省がファイティングポーズを取ろうとする前に雌雄を決してしまいました。
この時も白洲は鮮やかに機先を制したのです。
その後、通産省は日本の経済復興の推進役として歴史に残る仕事をしていきます。
これはまさに「もうけ方」を知っている、白洲次郎というビジネスマンの嗅覚がもたらした成功事例でしょう。
もう一点。
ビジネスマンは上司・部下とお客の心をつかむため、人間の特性(向上心や嫉妬など)について深く考える習性を自ずと身に付けます。
この習性は私も持っていますし、この習性がなければビジネスマンとしてはいかがなものかと個人的には思っています。
本来は政治の世界こそ、ビジネス以上に人間学を極めるべき世界なのですが、吉田茂はそうしたことに精通していない異質な政治家だったため、白洲が活躍する場は大きかったのではないでしょうか?
事実白洲次郎の対占領軍(GHQ)対策は実に人間臭いと言えます。
最も効果を上げたのは、マッカーサーに重用されているGHQ民政局に嫉妬し憎悪している参謀部をたきつけて、民政局の力を削いでいった事でしょう。
人間関係を利用した実に見事な戦略です。
曲がらない心
また、詳しく調べてみると、白洲次郎という人物は今見るとかっこいいとか颯爽しているとか、外見から来るイメージが先行しがちですが、実はけっこう世の中から叩かれた人だったんだな、意外と辛い目にたくさん遭ってる人だな、という事がよく分かりました。
吉田茂の側にいて「首相を陰で操ったラスプーチンだ」と言われたり、権力を欲しいままにした悪い奴、みたいなことが当時の新聞や雑誌に書かれバッシングを受けています。
実は、彼の人生は負けも多かったのです。
しかし外務省の資料に「今に見ていろという気持ち抑えきれず。ひそかに涙す」という白洲の有名な言葉が残っています。
白洲はどんな時でもいつもそこから「何クソこの野郎!」と立ち上がります。
実人生における挫折感であったり、うまくいかなかったこと、それをどう乗り越えていくか、そこが一番、彼自身も面白かったのではないかとさえ思います。
「世の中の人がすべて敵になっても、俺は自分の信念を信じる」という非常に強靭な自己というか、自分を信じる、まさに自信を白洲は持っていたのでしょう。
そこに強烈に惹かれます。
彼の中で正しいと思ったことを貫いて生きる、ものすごく強靭な曲がらない心を持っていたと思うんです。
白洲の生き方の普遍性
かつて福沢諭吉は、「立国は私なり」と説きました。
政治家や官僚が国を支えるのは当たり前の事です。
民間が、私立が国を支えようとする事こそ貴いのであり、そもそもそれがないと国家は成り立たないという教えです。
終戦を農民として迎えた白洲次郎は国家の危機に際して、カントリー・ジェントルマンとして駆けつけ、かつて自分が身につけたビジネスノウハウを国家の復興に生かしました。
「100年に一度の津波」が押し寄せている今、ビジネスマンは自分のことだけでなく国家の事を考えなければと、この作品を視聴して自戒も含めて痛切に感じました。
東京町田市にある白洲次郎・正子夫妻の旧邸宅、“武相荘(ぶあいそう)”。
いつの日か是非足を運んで白洲次郎の息遣いを肌で感じ、これからの人生のモチベーション向上に繋げたい、そう思います。