感情失禁

どうにも私は激情家なのである。
良く言えば熱い、悪く言えばウザイ。
ステレオタイプの性格を、どれだけ羨ましく思った事か。
しかし元来この性格のため、今さら変える事など到底出来ず。
感情のコントロールが自分でうまく出来ない事も多々。
何気ない一言が意図しない風に解釈され、誤解や軋轢を産む事も多々。
そのまた反対もしかり。






最近目にしたBlogで大変興味深く読ませて頂き、ハッとさせられた記事があるのでまずはご紹介したい。

twitterで感情を“お漏らし”しちゃう問題 – シロクマの屑籠(汎適所属)

医療系の業務に従事している者として大変お恥ずかしいのだが、この「感情失禁」という医学用語、正直この記事で初めて知る事となった。
なるほど、大変よく分かる。
私は、Twitter上での“お漏らし”常習犯の自覚がある。
一連の震災時の緊張感のある時だけではなく、普段もこのような事をよくしてしまう。
この記事を読んで「私は認知症(もしくは脳の機能不全)なのではないだろうか?」と思ってしまう程に考えさせられた(そうではないと願いたいが)。
考えさせられたために、このエントリーに取り上げようと決めた。


震災直後から、どこか気分が晴れない自分がいる事は否めない。
頭の中が一枚のフィルターで覆い被さるような、モヤモヤした感覚。
TwitterのTimeLine上も震災の事ばかり。
大切な事だとは分かっている。
しかし、滝の様に流れる悲痛な情報が自分を苦しめる。
結果、“お漏らし”してしまう。

震災発生から20日以上経過した今。
TimeLine上は震災前のそれと変わらない呟きが大半を占める様になった。
みんなが日常を生き、日常を送ろうとしている。
大切な事だとは分かっている。
でも私の頭の中のモヤモヤは晴れない。
結果、“お漏らし”してしまう。

そもそも震災が発生してしまったから、このようになったという訳でもない。
ただの言い訳。
細かい事を気にし過ぎという事は分かっている。
いつもという訳ではなく、バイオリズムのように定期的にこのような感覚に陥ってしまうのだから、非常にタチが悪い。
そしてそうなると、全ての物事に対して猜疑心が生まれてきてしまう。
配慮に欠け、また思慮も浅いクセに、自分の中の感情が爆発し、衝動を抑える事が出来ない。
そして“お漏らし”してしまう。
冗談を冗談と受け取れなくなり、激昂してしまう。
実際にTwitterをしばし休もうと思ったが、ほんの2日足らずでまた再開してしまった。
見る人が見れば、究極のかまってちゃん状態。
この文章も、かまってちゃんに見えなくもない。
自分でもヘドが出る。


結局何が言いたいのか分からなくなってきてしまった。
歳を重ねれば感情失禁の様な事は少なくなるのだろうか?
果たして本当にそれが出来るのだろうか?
自己弁護と取られても仕方がないが、私のような未熟な者は聖人君子にはなり得ない。
湧き上がる感情を完璧にコントロールするのは至難の業。
でも完璧にコントロール出来ないまでも、周りに迷惑をかけるようでは大人として情けない。
ネガティブな感情があるときは、安易にSNSを使わない方が賢明なのかも。
元々楽しむモノであるハズなのに、自分で自分の首を絞めてしまうのは本末転倒。
ふと、Blogという私だけのスペースがあって本当に良かったと思う。
Blogに記す時は推敲に推敲を重ねるため、軽率な事は書かない。
時間も掛かる。
故に自分と対話出来、自分を見つめ直す事が出来る。
私とお付き合い頂いている方々には、私のこのような所業のために、今まで苦々しい思いをさせてしまった事だろう。
本当に申し訳ないと思っている。
そして今後そういう事があっても、図々しいが見過ごして頂ければと思う。
こんなキッカケがなければ、こんな事を思いもしなかったし、熟考する事も、自戒する事もなかった。
そこに気付けただけでも、良かったと思う事にする。

皆さんは「感情失禁」していませんか?