67回目の終戦記念日に思う
蝉の声が鳴り響く中、今年もこの季節が過ぎようとしている。
今日は私達日本人にとってとても大事な日であるという事を、果たしてどれくらいの人が理解しているであろう?
67年前の今日、日本人は終戦・無条件降伏という建国史上最悪の屈辱を強いられる事となった。
67年後の今日、日本はとても無様な有様を呈している様に思うので、筆を取ってみる事にする。
あの日も、今日のように夏の陽射しがジリジリと照らし、蝉の声が鳴り響いていたのだろうか。
終戦から67年の歳月が経った。
戦後の復興を経て平和と言う名のもとに、私達は何不自由なく生きてきた。
そして、その結果が、年間3万人以上の自殺者を出し、年間に1千万トン以上の食べ物をゴミ箱に捨て、あれだけの事故を起こしながら経済合理主義を傘に永遠に残る核の廃棄物を生み続け、若者たちからは夢を奪い、自分だけが幸せに生きれれば良いと言う薄汚い価値観がはびこり、想像力を失い、多くの命を懸けて守ろうとした国の領土すら守れず、国の威厳すら失われている。
国を守ろうと、家族を守ろうと、多くの若者たちの命が散って行き、遠い異国の地で故郷に思いを馳せながら無数の命が尽きて行った。
空襲によって無差別に焼き殺された幼子や女や老人たちがいた。
原爆により一瞬にして街ごと焼き尽くされた。
わずか67年前だ。
遥か昔の話ではない。
現在も戦争の語り部と呼ばれる方々も沢山存命している。
私達はこの同胞の尊い命の代償を無にせずに生きてきたのだろうか。
戦争経験の無い私達は、この67年と言う歳月を遠い昔の過去にしてしまったのだろうか。
昨年起きた東日本大震災ですら忘れてしまっているのではないだろうか。
もう一度私達が考えなければいけないことは、私達が生きているこの今と言う現実は、失われた多くの尊い人命の上に成り立っているということだ。
隣国では領土問題で実効支配をしようと躍起になっている。
靖国神社に参拝をすることすら咎められ、愛国心を口にすれば軍国主義だと批判される。
この日本は私達が生まれ、そして私達の子供たちが生きていく大切な国だ。
もう一度、自分たちが生きていくこの日本について一人ひとりが考えなければいけない。
毅然とした強さを持たなければいけない。
相手のことを思う想像力を持たなければいけない。
意見も聞き、自分の考え方を伝える聡明さを持たなければいけない。
国は私達一人ひとりが創り上げると言う責任感を持たなければいけない。
そのためには、私達は努力を惜しんではいけない。
決して諦めてはいけない。
もう、右も左も関係無い。
必要なのは浄化された人たちのレベルアップされた力だ。
イデオロギーや政治体制で人間社会が改善されたことが無いことは、歴史が証明をしている。
せめて、夏のこの日だけは、戦没者の慰霊と再び戦争を起こさないために、黙祷を捧げながら、自分たちが生きるこの日本を考え、未来における自分たちの役割を想像することだと私は思う。