親とは?子とは?〜八日目の蝉〜

久々に心を激しく揺さぶられる邦画を視聴しました。
ただの感動とは全く異なる感覚。
重く、苦しく、切なく、心が引き千切られてしまいそうな、そんな感覚に陥り、いつの間にか号泣、そして色んな事を深く深く考えさせられました。
すでに視聴された方も沢山いらっしゃると思いますが、ネタバレにならない程度に私なりの考察をしてみたいと思います。





八日目の蝉

その映画は『八日目の蝉
2011年(平成23年)4月29日より全国公開され、第35回日本アカデミー賞では10冠を獲得しました。
まずは予告動画とあらすじを転記します。

「優しかったお母さんは、私を誘拐した人でした」。

不倫相手の子供を中絶した野々宮希和子(永作博美)は、本妻である秋山恵津子(森口瑤子)が生んだ赤ん坊を盗み、逃亡する。
希和子の不倫相手は、恵理菜の父、秋山丈博(田中哲司)である。
希和子は赤ん坊に、堕胎した子につけるはずだった薫という名前を付け、実の娘として育てる。
報道に脅え、いつかは捕まると思いながらも、1日でも長くこの子と過ごしたいと願って、各地を転々としながら逃亡生活を続けていく。

4歳まで希和子に育てられた秋山恵理菜(井上真央)。大学生になった彼女は、実の両親と折り合いが悪くひとりで暮らしている。
そして、封印していた記憶と向きあうため、かつての逃亡生活をたどるのだった。


心に重く刺さる内容

映画は前半部分で、赤ん坊の誘拐という罪を犯しながらも、精一杯に愛し育てる希和子の姿を描く事で、後半部分で見ている者に、様々な思いを抱かせるような作りになっています。
なかでもこの映画の肝と思われ、非常に重要なのが「親子とは何か?」という哲学的な問いかけです。
もちろん、誘拐は許されざる犯罪。
ですが、子を産めない体となり、赤ん坊が泣いている理由すら分からなかった希和子が、この幸せは長くは続かないと知りながらも、精一杯の愛情を注いでいく姿は、実の親子以上の絆を感じさせます。
その一方で、失った時間を取り戻せずに右往左往する実の母・恵津子は、恵理菜の顔を見る度に希和子を思い出してしまい、知らず知らずのうちに恵理菜に当たってしまうのです。
そして誘拐された薫(恵理菜)は、希和子を実の母親である事に何の疑いも持たず、つつましげな幸せを送っていきますが、4歳で希和子から引き離され、本当の両親はこの2人だと言われても実感を持てなかった彼女は、心を閉ざしたまま大人になっていました。

母の愛や子供の可愛らしさが情緒的に訴えられるから泣ける作品なのですが、主人公の希和子は不倫相手の子どもを誘拐して育てる「犯罪者」でもあります。
それなのにどうして思いっきり「犯罪者」に共感してしまうのでしょう?
新聞記事で見ると、「なんてひどい女だ」としか思わない犯罪者です。
事件に接するわたしたちの想像力、共感の欠如を思い知らされます。


子供への愛情は生みの親には勝てないのか?

この物語は、ある種の失恋物語だと感じました。
失う愛が描かれているから泣ける。
親の愛がいつか奪われてしまう、失うモノ、危ういモノと知られているから、よけいに涙を誘うのではないでしょうか?
親の愛というものは当たり前すぎてあまり描かれないと思いますが、他人の子を誘拐することによって、(実の母ではないですが)母の愛が浮き彫りにされたのだと思います。

希和子は4歳まで娘を育て、捕まって刑務所に入れられ、娘との幸福な日々を引き裂かれます。
それはまるで本当の母娘の絆もこの年齢頃にひとつの親離れの時期を経て、社会や友達の輪の中に子供が去ってゆく事を象徴しているかの様に感じます。
実際今年4歳になる我が愛娘も、今年幼稚園という一つの社会に飛び込み、日々視野を広げている様が、嬉しい様でもあり寂しい様でもあります。
子供は親のモノから社会や友達へと軸足と気持ちを移してゆくのです。
親と子の幸福で蜜月な関係は、そこで一旦終わりを告げるのです。

この物語は誘拐という個別の事件を取り扱っている様に見えて、母親と子供の普遍的な関係を炙り出したのでしょう。
親はかわいい子を授かって、いつかは失う。
個別から童話のように普遍性を獲得した物語だと言えるでしょう。

男の私でもこの映画は泣けました。
娘、子供への愛というものの悲しみは充分に感じられました。
女性だけしか分からないテーマではありません。
特に子供のいる方には本当に感じ入る作品だと思います。
私がこういう母の愛といったテーマにまるで興味がなかったのもありますが、最近の映画でこの様なテーマが取り上げられる事は少なかったように思います(と言ってもそんなに映画に詳しい訳ではありませんが)。
今どうして母の愛なのでしょうか?
これまでの社会は消費を煽る社会であって、家庭や育児に価値を置く社会ではありませんでした。
女性は家庭や育児に閉じこもる人生より、社会に出て消費や自己実現を図らなければならないという洗礼(洗脳)を受けてきた様に思います。
社会は子供を生み、育てるということにまるで価値を置かなかったですし、人生のカッコイイ目標からかけ離れているかのような価値観を強いられてきた様にも思います。
しかし晩婚化や少子化によって、「失われた」という気持ちが芽生えてきたから、このような物語が心に響くのではないかと私は思うのです。
「失われて、初めてその良さに気付く」という事ではないでしょうか?

八日目の蝉』、とてもいい映画です。
早速iTunesでもダウンロードしました。
でももう一回見るか?と聞かれるとちょっと考え込んでしまいます。
それくらい重い。
それくらい苦しい。
それくらい切ない。
ただ、この映画を見ると、産まれてから思い切り愛情を注いできた自分の娘に、さらに目一杯の愛情を注ごうという気持ちが沸々と涌いてきます。
いつかは私達親の元から離れて行く我が子に、「親の愛情」という、あまりにも当たり前であまりにも普遍的なモノを充分に注いでいこう、この気持ちはいつか彼女に伝わるはずだ、そう感じずにはいられない作品でした。
上記にも記載しましたが、iTunesでもダウンロード出来ますし、レンタルビデオ屋さんでも借りれます。
物語の好き嫌いはもちろんあるとは思いますが、興味のある方は是非ご覧になって感想や「親と子とは何か?」というテーマで語り合いたいと思っています。


僕の子は僕の子ではない

最後になりますが、「親と子」についてはカリール・ジブランのとても良い詩がありますので記載しておきます。
子は自分の子ではあるが、自分のものではないという詩です。


あなたの子は、あなたの子ではありません。
自らを保つこと、それが生命の願望。
そこから生まれた息子や娘、それがあなたの子なのです。
あなたを通してやって来ますが、あなたからではなく、あなたと一緒にいますが、それでいてあなたのものではないのです。
子に愛を注ぐがよい。
でも考えは別です。
子には子の考えがあるからです。
あなたの家に子の体を住まわせるがよい。
でもその魂は別です。
子の魂は明日の家に住んでいて、あなたは夢のなかにでも、そこには立ち入れないのです。
子のようになろうと努めるがよい。
でも、子をあなたのようにしようとしてはいけません。
なぜなら、生命は後へは戻らず、昨日と一緒に留まってもいません。
あなたは弓です。
その弓から、子は生きた矢となって放たれて行きます。
射手は無窮の道程にある的を見ながら、力強くあなたを引きしぼるのです。
かれの矢が早く遠くに飛んでいくために。
あの射手に引きしぼられるとは、何と有難いことではありませんか。
なぜなら、射手が、飛んで行く矢を愛しているなら、留まっている弓をも愛しているのですから。

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